中途半端に時間が余ると、いつも本を読んでいるかお茶にしている。そういう時は完全にエンターテインメント系の本をめくることが多い。たとえば占い(笑)。
あきません。私は自分の直観もさることながら、昔の統計学と言っても良い、そういう占いを読むのが嫌いではない。この間読んでいた本の中に、『眼に宿るちから』の話が出ていた。そこにちからがあるかないか。ない者は寿命も短く、出世の階段を上がる力も弱いとする。
現代的に考えれば、それは『脳のパワーと性能』が良いか悪いか、そこが安定して機能している人はストレスにも強いだろうし、問題解決能力も高い、だから出世の階段も良く登れる、、、そういうことだろう。
さらに言えば、その部分にパワーがあるということは、他人を動かす力があるということ。つまりボス運、統領運があるということだろう。『脳は他人をもコントロールする力を出している』、というのは統率力のあるなしと深くかかわっている。これはっばかりは、どうやっても後天的にどうにかなるものではないというのが、長年、人間をやっていて感じることだ。
ゼミナールや養成講座で信長や秀吉を作ることはできない。
逆に言えば、書店でそういう実用書を買う人は、『もっとも他人に影響されやすい、ボスに向かない人』だと私は考えている(笑)。同じように、高度成長期に優秀な人材がみんな実業界・産業界に行ってしまい、『でもしか先生』という用語があった。先生にでもなろうか、とか先生にしかなれない、というのを縮めて『でもしか先生』という単語があの時代よく使われた。あのころから教室が荒れ始めたが、荒れたクラスはそういう先生たちの担任のクラスだった。
つまり、ボスになってはいけないいけないタイプの人たちが、ボス性を最も要求される職場に行ったことが悲劇の始まりだろうと私は見ていた。同じようなことはバブル期にもあった。
この『脳のパワー』というのは一国をも動かす。
一方でそのパワーが『狂気』を帯びている場合もある。その部分が冷静沈着な『善』なるパワーの人だとまわりも落ち着く。仏教の『不瞋恚』(ふしんに)というのは、邪悪なパワーをそこへ呼び込む怒りを持ち込むなということだと私は理解している。
『聖者を見ることは快くさいわいなり。聖者につきそいて生活することは常にさいわいなり。愚かなる人たちから離れることが出来て、独りで善なる生活をなすことはまた快い』
と初期の仏典にある。また、愚かなるふるまいの者と同居するのは、怨み重なる者と一緒に住むのとおなじぐらい、苦しく、難しい、と書いてある。これはテレビで愚かなる人たちの騒々しいだけの番組を観るのと同じようなことかもしれない(爆)。
私はお笑い番組不要論者だ(笑)。最近のこの国のものには上質な笑いがない。
また、会ったり、見たりするとホッとする人がいる。週末に携帯に電話がありまして、自分の中の良い部分が共振するような感じがした。私がその人に貸していた仕事の用具のことだったのですが、ずいぶん長電話になった。その友人、最近テレビに出た。その理由がよくわかる。何百人居るところにいても、その人は、金色の海に大きい魚が一匹飛び上がったように浮かび上がって見える。非常に影のない健全なパワーを出している。1年半ぶりぐらいか。電話のあと1時間ぐらい精神状態がきれいに整っている感じがした。
電話を置いて、『ああ、最近、こういう友人に会っていなかったな』としみじみとした。
ちょうどその前日、英国のステムの鼻ボルトに付ける直系5mmぐらいのアルマイトのアルミ板で、赤地ではなく青地にGBと書いてある板を譲ってもらえないか、と言われてげんなりした。その方は18年も探している。
厚さ0.4mm、直径5mmのアルマイトの円盤シールに18年。私には考えられない。
なんというのか、『周波数が合わない』としか言いようがない。脳が発散しているパワーが、妙な思いに凝り固まっているのではないか?たぶん、そういうマニアックな人は自分が発散している異様な電波のごときものに気が付いていないのだと思う。
私も心底、マニアックな自転車界という苦海から一刻も早く足を抜きたいと思う(笑)。
あきません。私は自分の直観もさることながら、昔の統計学と言っても良い、そういう占いを読むのが嫌いではない。この間読んでいた本の中に、『眼に宿るちから』の話が出ていた。そこにちからがあるかないか。ない者は寿命も短く、出世の階段を上がる力も弱いとする。
現代的に考えれば、それは『脳のパワーと性能』が良いか悪いか、そこが安定して機能している人はストレスにも強いだろうし、問題解決能力も高い、だから出世の階段も良く登れる、、、そういうことだろう。
さらに言えば、その部分にパワーがあるということは、他人を動かす力があるということ。つまりボス運、統領運があるということだろう。『脳は他人をもコントロールする力を出している』、というのは統率力のあるなしと深くかかわっている。これはっばかりは、どうやっても後天的にどうにかなるものではないというのが、長年、人間をやっていて感じることだ。
ゼミナールや養成講座で信長や秀吉を作ることはできない。
逆に言えば、書店でそういう実用書を買う人は、『もっとも他人に影響されやすい、ボスに向かない人』だと私は考えている(笑)。同じように、高度成長期に優秀な人材がみんな実業界・産業界に行ってしまい、『でもしか先生』という用語があった。先生にでもなろうか、とか先生にしかなれない、というのを縮めて『でもしか先生』という単語があの時代よく使われた。あのころから教室が荒れ始めたが、荒れたクラスはそういう先生たちの担任のクラスだった。
つまり、ボスになってはいけないいけないタイプの人たちが、ボス性を最も要求される職場に行ったことが悲劇の始まりだろうと私は見ていた。同じようなことはバブル期にもあった。
この『脳のパワー』というのは一国をも動かす。
一方でそのパワーが『狂気』を帯びている場合もある。その部分が冷静沈着な『善』なるパワーの人だとまわりも落ち着く。仏教の『不瞋恚』(ふしんに)というのは、邪悪なパワーをそこへ呼び込む怒りを持ち込むなということだと私は理解している。
『聖者を見ることは快くさいわいなり。聖者につきそいて生活することは常にさいわいなり。愚かなる人たちから離れることが出来て、独りで善なる生活をなすことはまた快い』
と初期の仏典にある。また、愚かなるふるまいの者と同居するのは、怨み重なる者と一緒に住むのとおなじぐらい、苦しく、難しい、と書いてある。これはテレビで愚かなる人たちの騒々しいだけの番組を観るのと同じようなことかもしれない(爆)。
私はお笑い番組不要論者だ(笑)。最近のこの国のものには上質な笑いがない。
また、会ったり、見たりするとホッとする人がいる。週末に携帯に電話がありまして、自分の中の良い部分が共振するような感じがした。私がその人に貸していた仕事の用具のことだったのですが、ずいぶん長電話になった。その友人、最近テレビに出た。その理由がよくわかる。何百人居るところにいても、その人は、金色の海に大きい魚が一匹飛び上がったように浮かび上がって見える。非常に影のない健全なパワーを出している。1年半ぶりぐらいか。電話のあと1時間ぐらい精神状態がきれいに整っている感じがした。
電話を置いて、『ああ、最近、こういう友人に会っていなかったな』としみじみとした。
ちょうどその前日、英国のステムの鼻ボルトに付ける直系5mmぐらいのアルマイトのアルミ板で、赤地ではなく青地にGBと書いてある板を譲ってもらえないか、と言われてげんなりした。その方は18年も探している。
厚さ0.4mm、直径5mmのアルマイトの円盤シールに18年。私には考えられない。
なんというのか、『周波数が合わない』としか言いようがない。脳が発散しているパワーが、妙な思いに凝り固まっているのではないか?たぶん、そういうマニアックな人は自分が発散している異様な電波のごときものに気が付いていないのだと思う。
私も心底、マニアックな自転車界という苦海から一刻も早く足を抜きたいと思う(笑)。