うちのほうのタクシー会社が先月吸収合併されました。電話をかけると違う社名を言う。やや違っているところもある。ひとつは電話をかけると隣の駅からやってくるようになった。時間が余計にかかる。
経営が苦しいのだろうなと言う感じがする。4社ぐらいが吸収合併された。
なじみの店のコックが辞めてよその店へ行った。「潮目が変わった」感じがする。
久しぶりに都心である珈琲屋へ入った。2人いた頑固親父のうち一人の姿が見えない。若手が珈琲を淹れていた。味がずいぶん違う。ここももう来る理由がなくなったかな?という気がする。
日本の離合集散はペースがヨーロッパに比べて早いのかもしれない。
ふと思い立ってある人の自転車ブログを見ていたのですが、そのブログは2005年に始まって、2006年から2007年が最盛期。そのブログへ来ていた常連のほとんどがいまや自転車をやっていない。
一人は大病をして、治療費節約のため、費用の安い隣国へ移住。あとの5人ほども自転車をやっている話を聞かない。その本人もあまり体調がよくなく、エンジン付きに頼るようになってきている。
こどものころ、ある時突然、クヌギの樹液が涸れ、カブトムシやカナブンがまったく来なくなるのをよく見かけた。
どうも人の人生と言うのもそういうものらしい。
同じことは、雑誌や会社にも『寿命』があるらしいということです。一度手に取らなくなった雑誌はめったに再び手に取らない。
私の祖母の住んでいた町の商店街に刀剣の専門店があって珍しいなと思った。その近くに『やげん』と正体不明の干からびたものを並べている漢方薬屋もあった。どちらも今はかなり少なくなっているだろう。
私がイメージするプラモデル屋というのも、いまはまずまったく見ない。さまざまな豆を売っている『豆屋』も見ません。『貸本屋』も見かけない。みんなそういう店は『寿命がきた』のかもしれない。
ここ数年、機械式カメラの修理屋も激減した。籠の専門店もほとんど見ない。登山用品屋もいまは個人商店はみかけない。
行きつけの店もどんどん変化し、人的ネットワークも『人が変わってしまう』場合があったり、健康状態がもはやそういう状況でない人も現れ、10年もするとずいぶん変わる。
10年ひと昔とはよく言ったものだ。
私がよく自転車散歩していたお寺が、最近どうもちょっと違う。観光客の燃やすごみ焼却場が小川のすぐ上にあり、水が一時期ずいぶん臭いがひどかった。その上の方にある松に虫が付いたと殺虫剤をまいたりして、そこにいた両生類がいなくなってしまった。松の寿命はまず500年はないわけで、むしろ松を切って、両生類の大事をはかるべきだったろうと私は考える。
そこが今度は曼珠沙華の花をびっちり植えると言う。もともとそこになかったものをそんなに植えたら、また植生が変わるだろう。
構成している人たちやものが入れ替わってゆくわけだから、どんなものも同じではありえない。
たとえばの話、いま下駄の歯を入れ替えたり鼻緒を挿げ替えられる店がどんどんなくなっている。それは下駄をはく人が減ったからだろう。絹織物も風前のともしび。
ひのたまはちおうじの染物屋もいまや絶滅の危機だ。私の知る京都のある染物屋さんがやはり店をたたんで文房具の会社に就職した。
数日前、自転車の友人と話していて、下駄の愛用者として、いまやもう彼が納得できる修理をする人がみつからないと嘆いていた。その彼が、『自転車ももはやそういう業種になりつつある』と言っていた。
たしかに、『家具屋』というのもきわめて少なくなってきていると思う。若者は驚くほど家具を持っていない。引っ越しにトラックは不要で、カラーボックスを捨てて、量産家具をリサイクル屋に売り、ワゴン車一台で引っ越しが出来るほどの人がけっこういる。
そう考えた時、『現代人の幸福』とはどういうものなのかな?と腕組みしてしまう。
職場の仕事は非人間的な効率主義に支配され、家へ帰れば広い家なわけもなく。家具も食器も大量生産。自転車も大量生産、洋服も国民服のような集中生産。どこかへ行けば大混雑と自然破壊を目の当たりにして、コーヒーはコンビニで立ち飲み。
映画館で感動することもなく、劇場へはもっと行かない。スマホを見るのがメインな娯楽。
高速鉄道で何百キロ移動しようと、そこにあるのは同じ店ばかり。似たような街づくりばかり、逃れる場所がない。
誰しも、やがてどうしようもなく歳老いる。まわりの友人は徐々に減り、それに代わる確固たる自分の場所を持つ人は稀だろう。
狭い自分の家と乗り物で通る、いつもの道だけが全世界になるのか?
やがて、自分で自転車に乗る体力も、クルマを運転する若さもなくなってあと、いかなる人生を送るのか?
「夢は枯野をかけめぐる」。自分は近代設備のかぎりをつくした病室のベッドの上か?
最後の最後は『曼珠沙華の絨毯のごとき庭の寺』でそこを過ぎたらロッカーにはいりますか(爆)?
無一物の意味を誤解してはいけない。セメントの箱に住み、量産の日常品にかこまれ、量産スマホで量産情報を読んで、コンビニで量産100円コーヒーを飲んで、宗教とかを心の支えに生きるなどというのは、全体主義国家のなかで一つの思想を信じて生活するのと大差はない。
自転車とかお茶というのは道具がなくては成立しない。煎茶碗で抹茶がたてられないように、自転車もすでに作り手が考え製作したところで、その枠組みが出来ている。
もし、加齢などで自分が変わったら、道具も、その使うスタイルも変える必要がある。
同じであるためには、どんどん変化して、本質を変えぬよう努めるべきだろう。
真実の無一物は『融通無碍』(ゆうずうむげ)。何もないところから新味をひねりだす。
先週、あるところで私が昔乗っていた戦前の英国車のロードスターに再開した。なんというか、昔飼っていたイヌに再開したようで、むこうがなついている感じがあった。
私は自分の作った28号をわきへどけて、自分で新しい新車種を作って乗っても、それは、やはり私と私の自転車だろうと言う自信がある。
ある僧が、「不可思議で、珍しくも尊く、霊験、奇特とは何か?」と名僧に問うた。「自分がいまここに山のように独りで座っていることだ」と答えた。その質問した僧はその名僧を勘違いしてひれ伏して礼拝した。その名僧はこの救いがたい勘違い者め、汚らわしいことをするな、とばかり、嫌と言うほど棒でひっぱたいた。
『ちりも積もらない澄んだ境遇』。その中でしか流れる水に映る月のように大事なものを守ることは出来ない。
人の作った自動車やら自転車などの枠組みの外へ出られない人は、変化流転の世界の中で干からびるだろう。