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Channel: 英国式自転車生活
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一杯の珈琲を飲みに

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仕事の後、どうしても美味い珈琲が飲みたくなって、12kmばかり自転車で走っていった。

世の中の常識からすれば、『この暑い中、どうして往復24kmも自転車に乗って珈琲を飲みに行くのか?』というところだろう。

私はよい珈琲というのはそういう『ちからをもったもの』だと思っている。

「同じような、似たものでは決して満たされない、それでないといけないエキス」。

正直、適当なところでお茶を濁した感じの珈琲を飲んだあとの『裏切られたような失望感』は実に嫌なものだ。しばらくの間、そこでは珈琲を注文しなかったりする。

『自分のための商売としてコーヒーを出す』人と、『信じている珈琲を出そうとして、その中で何とか生活して行こうとしている人もいる』。3番目に『ある程度自分に珈琲の味覚があり、そこそこの趣味の良さでやっている』ところもある。

2番目のところはほんとうに減った。

これはどうなんでしょう。3番目のタイプのところはやむなく何回も行くが、決して満足と言うか、幸福感は得ていない。結果、そこが許容レベルを下回ると行かなくなる。

行かなくなっても、何も失った感じがしない。

このボーダーライン上を行ったり来たりしている店へ行くことを『風前のともしび鑑賞』などと呼んでいる(笑)。

しかし、一方で奇跡のような2番目のタイプがある。

こういうことは、蕎麦でも、酒でもある。さて、それが自転車ではどうか?というのが私の日々の問題だ。

小さい店で『よい珈琲豆が、金にあかした世界的なフランチャイズに農園ごと買い取られて手に入らなくなったらどうしよう?』という恐怖の裏表でやっているところは少なくない。

さらにいえば、そういうところが最高の味を引き出せず、『レッテルだけの商売をして、市場を教育してしまったら?』という恐怖もあるだろう。

この図式は材料がなくなって来ている自転車の世界と似ていると思う。

夕方、閉まる直前に行ったその喫茶店には私のほかに一人だけお客がいた。もの静かに珈琲を味わうと帰って行きましたが、92歳だとのこと。

たぶん店主はあと8年は続けるだろうから、その御老人は最後の最後まで美味い珈琲とともに生きるわけで、何と幸福な人だろうと思った。

(写真は本文中の場所ではなく、イメージです)

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