先週友人のこどもにあげるものをさがしに、ちょっと「おもちゃざうるす」に行ってみた。
いや~、寒々とした感じ。極彩色と蛍光色の箱が天井まで積んである。こういう場所でおもちゃを選ぶこどもは、『すべてのものは工場から来る。箱の中に目当てのものが入っていれば、それを生み出したり、手を下して作った人などどうでもいい』という感性が染み込むのではないか?
私のこどものころは、おもちゃはブリキ製が多かった。ゼンマイ仕掛けでウロウロ歩き回り、たまに羽を広げるテントウムシのおもちゃはお気に入りで、壊れるたびに買い直し、何個も買った。
テレビ映画ローハイドのウィッシュボーンを見ると、いつもそのおもちゃ屋の店主を思い出した。
私のこども時代、まわりに自然が明治神宮以外にはなかったので、実物のテントウムシを見たのは世田谷へ引っ越してから。実物を見たときは感動した。手のひらほどの機械でも壊れるのに、あんなに小さくてどうやって動き、壊れないんだろうと思った。
あらゆる意味で、「おもちゃは現実1歩手前の学習効果」があるものだと思う。
私の時代、小学校へ入ると、学校で最初におもちゃのセットをもらった。針がぐるぐる回るだけの時計だとかプラスチックのコインだとか。私はそのとき、すでに自分の目覚まし時計を持っていたので、『なんだ、機械のないおもちゃか』と思ったのを覚えている。
今から考えると、メカニカルのおもちゃが壊れるのを数多く見たことも、プラモデルを大量に作ったことも、現在の自分の機械に関する器用さや直感に大きく寄与していると思う。
現在の「中の仕組みや構造も見えず、ブラックボックス化した製品」はそこに結果があるだけで、垂れ流しテレビやコンピューター・ゲームと同様、『楽しませてもらう』だけで、なんの知的活動もない。
おもちゃざうるすを歩いていて、もうひとつ気になったのが、半分以上が「ねずみランド」のキャラクター商品だったこと。餡子男の関係が1割ぐらいあったか。
そうかといって、ねずみランドのキャラクターで、アホポンタンとかいう、直毛、釣り目、頬骨が『そろばん玉』のように張り出した女性が、ワンダーランドの金髪碧眼の女の子や、それが大きくなったようなツンデレラより人気が出たという話も、日本のこどもがそういうグッズを持って歩いているのも私は目撃したことがない。
あれは「病米理科の子分育成プログラム」ではないのかな?と私は睨んでいる。second class citizen としての同盟国の国民。『ツンデレラより落ちる、先住民あるいは海原上にある未開の島のお姫様』のつもりか?
だいたい、ワンダーランドのアリスは写真が残っている。作者のドッジソン(キャロルの本名)は英国の大学で教えていましたが、モデルとなった女の子は金髪ではない。
同様に、ツンデレラもフランスのサンドリヨンが元の話だから、ブーシェやワットーの絵のような丸ポチャで鼻が小さくて丸いフランス顔にするべきだ(笑)。そうすれば東洋の多くの丸ポチャ顔の少女たちの福音となろう(爆)。
「ツンデレラになるためには金髪にして、目が大きく、鼻が高く細くツンとしていないといけない」と幼少期に刷り込まれた人は、髪を脱色して(むこうでは脱色して作った金髪を「dish water blonde」ということを知らないらしい)親から受け継いだ顔をいじりまくる。
「和もののキャラクター」をこどものころに知らないので、思春期になっても蝋羅とか鶏ちゃんとかにあこがれる。しかし、完全に100%の欧風化ではないわけです。私から見ると「どっちつかず」。
私などは「和ものキャラクター」から、一気に「リンダ・カーターのワンダーウーマン」(笑)。
100%日本の琴姫七変化から100%欧風のワンダーウーマンです(爆)。その中間のどっちつかずのどちらの基準でも甘い感じのところには行かなかった。
ワンダーウーマンはねずみランドにもおもちゃざうるすにもいません。たぶん、派閥が違うんだ(爆)。
ご存じない方はYoutubeで。最近のリメイクはいけません。
* Wonder Woman Powers Tribute
* AMAZING WONDER WOMAN 2013 INTRO-Lynda Carter
私は彼女こそ、20世紀アメリカの唯一の『善なる存在』だと思っている(笑)。『なるんだったら、アメリカのポチにならず、ワンダーウーマンのスヌーピーになったほうが幸せかもしれない(爆)。スヌーピーが屋根の上で乗っている飛行機、ソーピッツ・キャメルのエンジンはW.O.ベントレーの設計だし(笑)。
さて、おもちゃが壊れると悲しかった。それで鍛えられ、今度は飼っていた魚やハムスターが死ぬと悲しかった。やがて、生き物はおもちゃのように新しく取り換えられないことがわかる。私も1980年代に飼っていた犬が23歳+で死んで以来、大型動物は飼っていない。
それは、たぶん、命とは何か?という自分自身の一生の流れの骨組みをも学習させている。
その「枠組み」を教えるものが、『他人を倒すコンピューターゲーム』と『銃器のおもちゃ』では将来が危ぶまれる。おもちゃざうるすには、『長い時間回していることを競う伝統的な日本のコマ』などは一切なかった。あるのは目がひとつだったり、3つだったりの緑色の化け物のキャラクター。
私は何も買わずその場をあとにしたのでした。
いや~、寒々とした感じ。極彩色と蛍光色の箱が天井まで積んである。こういう場所でおもちゃを選ぶこどもは、『すべてのものは工場から来る。箱の中に目当てのものが入っていれば、それを生み出したり、手を下して作った人などどうでもいい』という感性が染み込むのではないか?
私のこどものころは、おもちゃはブリキ製が多かった。ゼンマイ仕掛けでウロウロ歩き回り、たまに羽を広げるテントウムシのおもちゃはお気に入りで、壊れるたびに買い直し、何個も買った。
テレビ映画ローハイドのウィッシュボーンを見ると、いつもそのおもちゃ屋の店主を思い出した。
私のこども時代、まわりに自然が明治神宮以外にはなかったので、実物のテントウムシを見たのは世田谷へ引っ越してから。実物を見たときは感動した。手のひらほどの機械でも壊れるのに、あんなに小さくてどうやって動き、壊れないんだろうと思った。
あらゆる意味で、「おもちゃは現実1歩手前の学習効果」があるものだと思う。
私の時代、小学校へ入ると、学校で最初におもちゃのセットをもらった。針がぐるぐる回るだけの時計だとかプラスチックのコインだとか。私はそのとき、すでに自分の目覚まし時計を持っていたので、『なんだ、機械のないおもちゃか』と思ったのを覚えている。
今から考えると、メカニカルのおもちゃが壊れるのを数多く見たことも、プラモデルを大量に作ったことも、現在の自分の機械に関する器用さや直感に大きく寄与していると思う。
現在の「中の仕組みや構造も見えず、ブラックボックス化した製品」はそこに結果があるだけで、垂れ流しテレビやコンピューター・ゲームと同様、『楽しませてもらう』だけで、なんの知的活動もない。
おもちゃざうるすを歩いていて、もうひとつ気になったのが、半分以上が「ねずみランド」のキャラクター商品だったこと。餡子男の関係が1割ぐらいあったか。
そうかといって、ねずみランドのキャラクターで、アホポンタンとかいう、直毛、釣り目、頬骨が『そろばん玉』のように張り出した女性が、ワンダーランドの金髪碧眼の女の子や、それが大きくなったようなツンデレラより人気が出たという話も、日本のこどもがそういうグッズを持って歩いているのも私は目撃したことがない。
あれは「病米理科の子分育成プログラム」ではないのかな?と私は睨んでいる。second class citizen としての同盟国の国民。『ツンデレラより落ちる、先住民あるいは海原上にある未開の島のお姫様』のつもりか?
だいたい、ワンダーランドのアリスは写真が残っている。作者のドッジソン(キャロルの本名)は英国の大学で教えていましたが、モデルとなった女の子は金髪ではない。
同様に、ツンデレラもフランスのサンドリヨンが元の話だから、ブーシェやワットーの絵のような丸ポチャで鼻が小さくて丸いフランス顔にするべきだ(笑)。そうすれば東洋の多くの丸ポチャ顔の少女たちの福音となろう(爆)。
「ツンデレラになるためには金髪にして、目が大きく、鼻が高く細くツンとしていないといけない」と幼少期に刷り込まれた人は、髪を脱色して(むこうでは脱色して作った金髪を「dish water blonde」ということを知らないらしい)親から受け継いだ顔をいじりまくる。
「和もののキャラクター」をこどものころに知らないので、思春期になっても蝋羅とか鶏ちゃんとかにあこがれる。しかし、完全に100%の欧風化ではないわけです。私から見ると「どっちつかず」。
私などは「和ものキャラクター」から、一気に「リンダ・カーターのワンダーウーマン」(笑)。
100%日本の琴姫七変化から100%欧風のワンダーウーマンです(爆)。その中間のどっちつかずのどちらの基準でも甘い感じのところには行かなかった。
ワンダーウーマンはねずみランドにもおもちゃざうるすにもいません。たぶん、派閥が違うんだ(爆)。
ご存じない方はYoutubeで。最近のリメイクはいけません。
* Wonder Woman Powers Tribute
* AMAZING WONDER WOMAN 2013 INTRO-Lynda Carter
私は彼女こそ、20世紀アメリカの唯一の『善なる存在』だと思っている(笑)。『なるんだったら、アメリカのポチにならず、ワンダーウーマンのスヌーピーになったほうが幸せかもしれない(爆)。スヌーピーが屋根の上で乗っている飛行機、ソーピッツ・キャメルのエンジンはW.O.ベントレーの設計だし(笑)。
さて、おもちゃが壊れると悲しかった。それで鍛えられ、今度は飼っていた魚やハムスターが死ぬと悲しかった。やがて、生き物はおもちゃのように新しく取り換えられないことがわかる。私も1980年代に飼っていた犬が23歳+で死んで以来、大型動物は飼っていない。
それは、たぶん、命とは何か?という自分自身の一生の流れの骨組みをも学習させている。
その「枠組み」を教えるものが、『他人を倒すコンピューターゲーム』と『銃器のおもちゃ』では将来が危ぶまれる。おもちゃざうるすには、『長い時間回していることを競う伝統的な日本のコマ』などは一切なかった。あるのは目がひとつだったり、3つだったりの緑色の化け物のキャラクター。
私は何も買わずその場をあとにしたのでした。