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Channel: 英国式自転車生活
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『一生飽きない』ということ

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ひのたまはちおうじのほうは忘年会も終わり、「くかざり」を避けて大掃除も済ませ、正月のものを昨日設置し、一安心ついたところです。

その忘年会の面々はみんな雑誌でカラーグラビア数ページはれるぐらいの人たちなのですが、話題は『手放すことについて』になった。

そこに来ていた人たちは3つのタイプに大まかに分かれました。

1)思い入れがあって、決して何も手放さない、いや手放せないタイプ。

2)転々とものを入れ替え、ラインナップが変化し、それでも手放さないひとつふたつが残るタイプ。

3)入れ替えたいのだけれど、思うように出て行かず、どうしても溜まってしまうタイプ。

私は若い頃はタイプ(1)でした。もう収納場所に困るほどものを持っていた。そこから(3)になったのですが、売ろうとしても、何をやっても、持っているものがあまりに特殊で、奥の細道に入ってしまっているものだったので、容易には売れませんでした。1908年ごろのコッタレス・クランクだとか、BROOKSの後ろのバッジが「透かし彫りになっている」20世紀初頭のサドルだとか、1890年頃のブロックチェン用の幅が1.5cmぐらいあるリアのスプロケットだとか、処分にずいぶん困った部品を山ほど持っていた。

『サンビームの神官』と言われているロバート・コードン・チャンプが「オレなどは、自転車は1台だけ、スペアパーツは靴の箱にひとつだけだ」と言っていて、考えさせられた。

ただし、動かない『バーン・ファインド物』(納屋で発見した車両)を路上に戻すには膨大な量のスペアがいることも事実なのです。しかし、そのあたりを40代、50代からやり始めると、『砂金を拾うために取った砂の処分が存命中に出来ない』。そういう人をあまた見た。下手をすると晩年の20年30年が後片付けで終わってしまう。

奇妙なもので、『ライフスタイルにはまらないものはすべて飽きた』。どう言ったらいいのか、『抽象的に頭の中のイメージで楽しむものはすべて飽きた』と言ってもよい。イタリアのクラシック・ロードも全部手放した。表現が難しいですが、『人生に爪をかけている感じが薄いもの』はすべて処分した。

一時期『御神体の変速器』を2つ持っていた時、一台はそれでファウスト・コッピ仕様にして、もう一台はスペシャル・ルイゾン・ボべにして2台持って打ち止めにしようかとも思いましたが、それも手放した。ラグまでボべの乗っていたそのもののモデルは、日本ではうちにあったその一台だけだと思う。ヨーロッパでもみたことがない。

同様に世界に12台しか存在しないH.R.モリスのゴシックラグの車両も手放した。「どうして?」と訊かれたものですが、「乗ると普通のスポルティーフと大差ないから」と答えた。

みんなが「すごいですね」とどよめいて、自分は「乗ると普通だよ」という冷めた感じのギャップ(笑)。

所有欲の満足のために、どこかで、自分で自分に目隠しをしているのが嫌になった。

これは自動車でもそうだろうと思うのですが、高性能を目指したものほど、「ああ、進歩しているな」と感じることがある。ところが、実用のレンジの中で完成度の高いものはまったく古びた感じがしない。

むしろ、1920年代のロードスターに乗ったら、1960~1980年代のロードスターはチャチな乗り味で、使うに堪えない。1930年代のものでも「大量生産の堕落が入ってるな」と感じる。

そういうところの「おいしいところ」を2台だけ残した。

その忘年会で、若手が1940年代から1960年代のスポーツ・モデルをすべて手放したがっていた。残すのは古い戦前ものだけだという。

「なぜ?」
「なんというのかな。乗ってよくある、ふつ~な感じなんです。違うものに乗っているっていうワクワクする感じがまったくないっていうのか。」
「ペダルひとこぎごとのトキメキか。(笑)」
「そうなんですよ。」

そうしたら、ある自動車好きが、最近は超高性能スポーツカーを見ても、まったく何も感じなくなっている、という話が出た。彼は昔のレースの結果とか運転していた人間の名前とかすらすら出てくるのですが、その彼もやはり飽きていた。その彼、アマゾンで43円で買った送料260円(?)の古本に盛り上がっていた(爆)。

数日前、所用で埼玉のほうへ呼び出されてクルマで行ったのですが、そこへは高速道路も何も使えない。ひたすらに下道を走るしかない。何度行っても2時間ちょっとかかる。ドイツのスポーツワゴンで行った時も、蔵雲で行った時も、大阪発動機の軽で行った時も、所要時間はまったく同じ。これはジェンセン・インターセプターで行こうがエスパーダで行こうと同じでしょう。むしろ故障、立ち往生、オーバーヒートのリスクが高まるだけ。

ある種の自転車にも似たようなことが言えると思う。信号機は一定の想定速度で連動しているので、埼玉のはずれのほうから自転車で来るのと、自動車で来るのと15分変わらない。これは4人ほどの人が同じ感想を語っていた。

昔、十数年前、富士のサーキットから世田谷まで、レースの後の渋滞時にロードレーサーと自動車とどちらが早く帰り着くか企画を出したことがあった。結果はほとんど変わらなかった。

都心部での移動、駐車場探しで手間取る地域なら、差はもっと少ないはず。

シンガポールでは自動車には『禁止税』的な高額がかけられて、プリウスもスバルも一千数百万円する。現実的にあの広さの国では、せいぜい時速60kmでしょう。それでも超高級車が存在する。ものすごく凝ったタワーパーキングのスライド機構のようなものがあって、高級車を自分の高層マンションの部屋まで運ぶのです。表へ出るまでに大変な時間がかかる。

さらに、もうちょっと考えてみると、『速度は意識が認識する』わけです。高速で走ってきて、料金所へ着くクローバーリーフを走っていると、実際はまだかなり速いのに、『遅く感じる』。これは脳と意識がまだ速い速度に合わせて活動しているから。

私は、自分のことを観察してみると、飛ばしている時は『意識がとんがって、狭い範囲で速く動いている感じ』がする。見ているエリアも狭い。自動車もロードレーサーも同じ。一方でゆっくり走っている時は、意識は広い範囲にのべひろげられ、ゆっくりとした速度で脳も広い範囲が悠然とおだやかに活動している気がする。

私はこれこそ、自転車が気分転換、気晴らしになる理由だろうと考えている。モーターサイクルの場合、さらにこれに『音』が加わるので、『音で疲れる』と自転車へ軸足を移してくる人も少なくない。

ある程度、趣味の乗り物をやってきて、そのあたりに気が付いてくると、もはや『速度追求型』には戻れなくなる人が少なくない。私もその一人ですが、持っていてもそう言う車両に飽きてくる。

『人間の意識がなぜあるか?』というと、自分の生存と生命を維持するために発達したはずで、それは自分の行動速度と関係しているはずです。その活動力も脳の意識の働きも一生のなかで有限なはず。

私はあまりに速く走る自動車だとかロードレーサーでの下りだとかは、人間本来の脳の使い方からかけ離れたものになりつつあると思う。

クールに、自動車の運転をしている人を眺めると、「こんなポヤッとした感じの人がこんなに飛ばしていていいのかな?」と感じる場合が少なくない。H.G.ウエルズの宇宙戦争のラストで、宇宙船が次々と地面に落ちて停止し、中からぐにゃぐにゃの者が降りてきて生き絶えるラストシーンを思い出してしまう。

機械の進歩と脳の本来の機能がかけ離れたものになってきているから、サスペンションでも何でもコンピューターの補佐を入れる。しかし、それは運転者のスキルをそぎ、人間をある意味ダメにしていると私は考える。

乗り物がいかにも「人間味あふれる形状」や「石が川原や海で洗われたような自然に融和するカタチ」をしているなら良いのですが、「威嚇的にメカニカルなデザイン」になるとさらに視覚的に疲れる。不幸にして自転車も自動車も、そう言う方向へ着実に向かっている気がする。

『一生飽きない』というのは、どこかでその人の人生で、本質的に強烈な補佐を、なにげなくしていると考えたほうがよい。それが顕示的なところから来ているのか?ほんとうにそれがないと自分の生活が完結しないものなのか?意識はきわめて多くの場合、自分自身にも嘘をつく気がする。自由に遊べるのはその先でしょう。

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