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Channel: 英国式自転車生活
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ゆったり普通

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イタリアからバイクの設計者の友人が来ていて、昨日は昼飯を一緒にとり、2時間ばかり自転車2台でふらふら徘徊した。

カフェでの話題は「普通にいい」という乗り物が自転車からバイクから自動車にいたるまで消滅しつつあるという話題でした。

私はほんとうは、そこが一番重要な生活密着部分だと思うのですが、そこまで『無欲枯淡』の境地が深まる人は少ない。

かつてはそこの最高峰がロイスだったわけで、英国ならその下にローヴァ―、アルヴイス、レイピア、ヒルマン、ヴァンデン・プラス、アングリア、ヘラルド、マイナーなどがあったわけです。

スポーツカーは『非日常』の存在として、別枠であった。かつての『オールドワールド』の非日常を好む人にはモーガンがあり、最新にはアストンがあり、ジェンセンがあり、ロータスがあり、ジャグがあり、MGやTRがあった。それより別に自分でキットを組み立てるマーコスやジネッタがあった。

英国では状況により乗り換えていた。

日本では、高度成長期からずっと、『一台持ったら終了』で、4畳半一間と台所の安アパートに住んで、無理に無理を重ねスポーツカーを1台持つ人も少なくなかった。

やがて結婚して、こどもができると2シーターでは用をなさず乗らなくなる。バイクだと『こどもの幼稚園への送り迎えも出来なくなり、買い物も出来ず、『危ないからやめて』と妻に言われてバイクを降り、駐輪場でホコリをかぶり、バイク・キングに献上(笑)。いや、私の周りの8割ぐらいがそうです。

それでも「熾火」のようにじわじわ燃える欲求はやまず、「普通にいい」ものにもスピードを求めるようになる。そこにドイツ車が日本の場合うまくはまり、日本車もみんなその路線になった気がする。

ほんとうにスポーツか?Etypeのよさも、モーガンやMGのオープンエア・モータリングのよさもなくなっている。ローヴァ―P5やアルヴイスの「普通の良さ」もない。

やがてはみんな中高年になるわけで、そうなった時、路上は「セコセコ飛ばす半端スポーツ」があふれ、「普通に走る高齢者はどけ」とばかりにうとまれる。

つまり、60過ぎたらそういうクルマの流れで走るのも鬱陶しくなる。

私の知る航空パイロットのオーストラリア人がXK140を東京で乗っていた。彼があるとき、
「They have no respect for old cars.」
と日本の運転者を評して言った。これは運転マナーに関しての話。

所沢譲治氏が古いアメリカ車を乗っていて、坂道の信号の手間で、「あいつあんなすぐ後ろにくっつけて。このクルマがどのくらい発進するときに後ろ下がるかわかってねェな。」とテレビで言っていた(笑)。

私の友人でベントレーのマリナーパークウオードのRタイプを持っているのがいる。あの時代のベントレーはいつまででも修理して乗りつづけられることを前提に考えて作っているので、ブレーキのサーボは機械式になってる。それが効き始めるまでに、タイヤが一回転する必要があるわけで、あの巨大な径のタイヤが一回転するわけですから、車間を50cmとか1mに渋滞でつめるわけにはゆかない。それが気に入らなくて後ろでイライラして鳴らしたりする大貧民がいるのがすごくストレスになるらしい(笑)。

しかし、英国流に言うなら「Let's face it.」あの大エンッオでも日常はフィアットのサルーンに乗っていたではないか。

これは自転車にも同じことが言える。いまや「普通に乗り良い自転車」をつくるのに部品がない。最高のツーリング・マシンを作りたいと思っても、ツーリング車、キャンピング車に使える駆動系の専用部品も転用できるレース部品も良いものがない。MTB用の足回りにすると、あれは特殊な山岳用でホイール径が650Cなので、ギア比の良いのがない。

私は650Cが大嫌いなのですが、世の中も650Cの不合理に気が付いたのか、しだいに650Bに流れが移ってきている。しかし、それでもなお、コンポは驚くほど選択肢が少ない。現状、古い部品をまぜるほかないのです。

私の絵の師が面白いことを言っていた。
「茶碗というのは、中が詰まっていたら使い物にならないわけで、中が空洞だから役に立つ。それが毎日使うものだから形に嫌みがなく、、という風になるわけだけれど、それが行きすぎると、中の空洞分の役にたつ部分のことはどこかへいっちゃって、外側に模様を描いたり、絵を描いたり、そっちのほうが巧くできることの方が重要になったという本末転倒が起こってくるわけさ。毎日使う、手の中でのあきのこないよさというのは顧みられなくなってしまう。」
私はこれは乗り物にもそのまま言えると思う。

自転車の場合、「乗り手の個性が沁みこむ空白部分が必要」で、それがあってはじめてその自転車がその人にしっくり合う。ところが今の自転車には自分の旅の記録を示すシール1枚、自分のイニシャルひとつ貼る余地がない。

『買って持って終わり』。部品を入れ替えるたのしみもほとんどない。

しかも性能、それもメインに速度だけの「とんがったデザイン」になっている。

昨日会った友人が、
「バイクなどは、ほんとうはとんがったやつを作る方が簡単なんですよ。ただ技術的に速いのをつくればいいんですから。」

これもまったく自転車と同じ。「普通の幸せ」というのは、「とんがった部分での幸せ」より、じつははるかに満足が深いものであると思う。

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