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Channel: 英国式自転車生活
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生物は環境のもの

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こどものころ、初めて父の田舎へ行ったときのこと。家の前に田があり、その先に大きい川があった。家のわきには小川が流れていたのですが、生き物がいるわけではなし、汚れていないドブの感じでした。昔はそこで皿とか洗っていたようですが、その時期にはすでにそういう雰囲気ではなかった。

その川をずっと辿ってゆくと、田んぼが何枚もあるところへ出た。田んぼの脇の小川。

「マムシがいるぞ」とみんなに脅かされていた。実際かなりたくさんマムシがいたのですが、彼らの毒が強くなるのは秋。しかも、私はたとえ動かなくても動物や昆虫を即座に見つけるのが得意でした。一応棒を持ってはいきました。

沢登り、小川登り。

カエルが結構いるところへきた。「このへんはヘビがいそうだな」と警戒した。

生き物は必ず、その環境を反映している。私が昔いた八王子のあたりのヒキガエルはビスケット色と赤茶の個体が多かった。それはクヌギの落葉の色とうまくまぎれていた。今のあたりは黒っぽいのが多い。

カエルもいかにもそういうのが居そうなところにいる。

もう少し登ると、カエルはいなくなり、岩肌から小川へ清水が落ちているような感じのところがけっこうあった。ここにはサワガニがたくさんいた。

面白いもので、高度と川肌の具合で、棲み分けをしているようにみえた。

やがて上の集落に着き、このあたりはまた田んぼ。セメントの小さい堰があって、そこから上には蟹もカエルもいなかった。水も冷たい。

さらに登ると、小川には支流がありお寺の池につながっていた。この池にはカエルと貝と蛍がいた。

その裏へさらに登ってゆくと、林が植林された樹になっていて、針葉樹の葉が小川のまわりに厚く積り、ふかふかになっていた。まったく生き物の気配はない。

こどもごころにも、山奥へ行けば行くほど生き物が増えないのは不思議だなと思った。

蓼科の城の平からピラタスののぼり口の手前に、下へ行くとかけす峡になる川がありますが、あのあたりの川にも昔から生き物はいなかった。

ある古いお寺の由来に、川が金色に光っているのを見て、不思議に思って、辿って行ってみたという話があります。その金色の川に導かれてたどりついたところにお寺を建てた。じつは、これ京都の清水寺の話。

私はもう、小川を登るようなことはしませんが、里の川に足を浸すと、それがサワガニがいたり、蛍がいたりする上流と「回路がつながったような気がする」。

小川は水の流れで、その底には石と砂があり、生き物ではありませんが、私はそこにも「生きている不思議な存在」を感じる。

サワガニもカエルも、ヘビも蛍も貝も、みんなそこのある一定地域に生きさせてもらっているのを感じているのではないか?

さて、それでは人間はどうなのか?

スマホで今日の株価やビジネス情報をチェック、仲間のゴシップをSNSでひろい、ニュースを見て、ゲームをして、自分を生かしてくれている巨大な自然の存在を意識することはない。

さて、人間は水辺のいったいどこに自分の場所をみつけるのだろうか?

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