むかしはたしかに写真は紳士のたしなみだったと思います。そもそも高級カメラが買えるということは、ずいぶん生活に余裕があること。
また写真に撮って残すべき日常、もしくは余暇の時間があるという証だったでしょう。
そもそも、写真に残すような生活がないというのは、寂しいことでもある。私はデジカメ時代からスマホ写真の時代に移ってから、写真は「ねぇ見て見て」というコミュニケーションのものに変わった気がする。
作品や、10年~20年後へのタイムカプセルではなく、もっと刹那的な物になった気がする。
写真は本当は2度とふたたび同じものが写せないもの。一生のうちの、たとえば86年のうちの、永遠の60分の1秒なわけです。
フィルム現像が終わるまでの間は、焼き物を窯から出すような期待感がある。たまにはすべて失敗していたりすることもある。
かつては、休日、ドイツ製のカメラを首から下げているのが紳士の一つの定番のスタイルでした。
かつて、007のロシアから愛をこめてで、ボンドがローライフレックスを首から下げてボスポラス海峡をゆく船の上で写真を写しているシーンがありました。それが、最近のものでは、ヘリコプターから降りたボンドを携帯で写し、送信するシーンがありました。「英国諜報部員、、」すべてばれる。
デジカメは情報相似形を探している手段。あるいは情報収集そのもの。たぶん、カメラとのかかわりあい方も変わっている。
私は人生の大半をフィルムカメラと共に過ごしてきたので、フィルム時代はデジカメ時代の6倍ぐらいある。小学生の時からボルタ版のフィルムカメラをもって自転車に乗っていたので。
自分で自分の写真を見て、自分がなんとなく古いフィルム時代の人間であることをけっこう感じます。
フィルム時代の人間は、良い写真は、ブレていても、ボケていても、露出が狂っていても成立すると考える。ならば、『良い写真とは何か?』ここにすべての遍歴は尽きると思う。