人間の聴覚とか視覚ではたいへんな量の情報が入ってきて、全部を認識すると脳がパンクするため、「選択的に見たり聞いたりしている」。
そこで、人によって「見ても見ず」という状態も出てくる。
雑踏の中、駅のアナウンスの中でも会話の相手の話が聞ける。
たぶん、みんな気が付いていないのだろうと思いますが、フィルムカメラでは、この「脳の情報選択する行為」が、『構図』、『ピント合わせで、どこをボカすか』から、『ハイキ―、ローキーの焼き具合』から『覆い焼き』にいたるまで、写し手の意志が入ると思う。
その意味、フィルム・カメラは作品を作りやすい。
デジカメは、「なんでもハッキリ撮れればいい」と『愚直』なので、現実を切り取ってきて『これどうよ?』と第三者に見せている気がする。これは高級にデジカメがなるほど強まる気がする。
捕り損じ無しが、写し手の意志を入りにくくする。
絵を描く場合、『写真のように描けることが良いとは限らない』わけで、美大の入試勉強のやりすぎで、何を描いても写真のようで、『自分の絵が描けない人』がけっこういる。デジカメの写りすぎはこれに似ている。
先日、友人のところにこどもが生まれ、記録用にとフィルムカメラにチャレンジするのに、うちのカメラの一台を譲った。似たようなものがスペアで4台もあった。私の今の歳を考えれば、2台あれば充分以上。その彼にはほぼ新品未使用のものを渡した。私は今の手持ちを使い切って、新品から使い始めることは考えられない。一方、彼の方はこれから長いですから、彼の方に新品未使用を渡すのが筋でしょう。
私は一方で、これからは失われゆく風景を、「もっとも難易度の高いカメラで写しておこう」と思っています。1ロールで8枚しか撮れない。しかも、1枚づつガラス板でピントを合わせ、フィルムに差し替え、その1枚を撮る。このロールフィルム・ホルダーが「きも」です。これがないとシートフィルムを暗室で切って使わないといけない。
このカメラ、縦にも横にも『あおり』が利くので、五重の搭でも建築でも、巨木でもレンズによるしりすぼみの画像変形がほぼなくせる。
この個体はかなり傷だらけで汚いですが、レンズの状態が良い。ジャバラの痛みもない。自転車のバッグに入れて風景を写す道具ですから、これで何の問題もない。これと同等に写り、雑誌の見開きの印刷に耐える写真となると、デジカメではそうとう出さないといけない。
コンパクト・デジカメとか「非一眼」のたぐいのレンズの歪みはひどいもので、26インチの自転車を写すと、片方の車輪が24インチに見えるくらい歪みがひどい。
写真は老後の楽しみ用。かつては『家一軒』と言われたハンドカメラ。「フィルムがないので使えない」という思いこみで、今は数千円ですが、機種に合うロールフィルムホルダーがあれば使える。
大きい方は「エルネマン」で、これはヨーロッパの映画館の高級なところは9割以上はエルネマンの映写機を使っていたという名門光学器メーカー。もうひとつはツアイス。
たたむと現代のデジタル一眼の半分~3分の1のサイズ。写すと解像力はすさまじい。重さもデジタル一眼よりはるかに軽い。なんたって、金属の鏡胴でなくて、紙のジャバラですから。