英国にずいぶんいて、何を学んだか?というと、低収入での楽しい毎日の送り方、だと思う。
これに関しては、ヨーロッパでは英国が一位、イタリアが2位ではないか?と密かに思っている。
これはたぶん、7つの海を支配した大英帝国が没落してゆく中で、『生活の質を落とさず、支出をびっくりするほど減らす方法』を生み出したのではないかと思う。
彼らは金をかけず、「social respectability」を減ぜず、楽しくやるのが巧い。
ワイシャツで襟が白くて他がストライプのものはおしゃれですが、あれはもともと、襟と袖口が一番傷むので、そこだけを交換したのがはじまり。
仲間で、お屋敷の最上階に後付で作られた画室に住んでいるのがいた。四方がくもりガラスの窓で、かなり変わった部屋のため借り手がつかなかった。そこへ彼は入り、中をやりなおした。
古道具屋から、絨毯の古い奴を買ってきて、デッキブラシで道路で洗った。絨毯というのは、ほんとうに良い奴は、毛が一本づつ縛ってあるので抜けません。それが使いこまれて、チビたものほど値打ちがある。
長年のホコリと汚れを落として、なかなか素晴らしい絨毯になりました。
彼はそれが乾くまでの間、壁をペンキで塗り、乾いて綺麗になった絨毯を入れると、なんだかものすごい本格の有名画家のアトリエのようになった。彼は家賃は3万円ぐらいしか払っていませんでした。
今度はどこかから、古い額縁を3000円ぐらいで買ってきて、知り合いに金箔押しをやって、味を落とさないくらいにしてもらっていた。中には彼が敬愛するヴュイヤールの複製画を入れた。額縁はまだヴュイヤールが生きていた時代のもの。すべてがホンモノだったら数億円でしょう。
私の骨董のお師匠のGのところで、割れていて売れ残ったカポテモンテの花瓶を巧くエポキシで継いで、境目をうまく色調整して合わせたジンクホワイトで見えなくして、遠見には無傷のように見せ、中にビンを入れ庭で切ってきた花を活けていた。
イーゼルも椅子も安いのを買ってきて、緩んでいるのを締め直し、ワックスで磨き、彼自身絵を描くので、半完成の彼女のポートレートをイーゼルの上に置いていた。
出かけるときは、フィルのところで50ポンドで買った1930年代のローヤルエンフィールドの自転車。いや、良い生活してるな、と感心した。
使わせてもらっている一階のキッチンはヴイクトリア朝のものでかなり広い。
私はそこで感心したのは、彼らは合理的・実利的で、完璧を求めないから可能なのだと思った。壊れているのを買って直す。無傷完品、新品未使用品を高額で探さない。
書類を入れる引き出しがたくさんついた家具で、ウエリントンチェストというのがありますが、引き出しの足りないのを平気で使う。そして、何かの時に、ミッシングしている引き出しを職人に作らしてしまう。金具などはほぼ見分けのつかないものを、蚤の市で数百円で探し出す。
出来上がったら、売ってしまって、もうちょっといいのに買い替えたりする。
眼力一つの世界です。
私もじつはそれをやっている(笑)。原則として『人が騒ぐものは決して買わない』。いまどき、英国の古い自転車を買うのは的外れです。私はずいぶんへチンズを買いましたが、それは昔は騒ぐ人がいなくて安かったから。1987年ごろ、紙が巻かれた新品デッドストックのへチンズは過小評価されていて、6万円で買えた。ギロットなど(ジロットと書いてあるのは発音が誤っている)の中古のフレームは1万数千円だった。なんでこんなに安いのかな?とずいぶん買った。そういうのがあれよあれよと1990~2000年頃から高値を付けるようになった。
円も弱くなり、ツイード・ジャケット走行会で値が上がったものを今買うようなことは、私ならしない。今なら、過小評価されている買うべき自転車は他にある。
人が一生に稼ぐお金は有限ですが、買う対象物は自分の使える限度を超えていくらでもある。
日々使うもの、使えるものにこそ深い満足のゆくものを持つべきでしょう。使わない展示物に大枚をはたいても、決して豊かな雰囲気には浸れないと思う。
何ごとも、世の中が価値をみつける前のものを買うのがよい。ほんとうの豊かさは世間のものさしの中にはない場合が多い。豊かさは人がどういうかとは無縁のものですから。
私はこのごろ、濃い独逸ビールの小瓶かギネスのボトルを飲むので、大きいジョッキが不要になりました。小さいビーカーがないかな?と見ていたら、ドイツのピューターで出来たものが700円でありました(東京で)。ピューターは錫ですから材料代にもならないでしょう。「ヨーロッパで出るところへ出れば、2万円ぐらいするな」といういいやつでした。ピューターはかつて、水を美味くすると、日本などでも茶人が愛用した。井戸に錫を投げ込む人もあったほどです。ビールはピューターの容器で飲むと格段に美味い。しかし、『今出来のものはデザインがくどくて、使う気にならない』。古いもので良いものを探していました。
「よーすこう・こーが文明」のほうではお宝といえば『金・銀・銅』ですが、ギリシャ・ローマから中世までのヨーロッパはピューターも入っている。中世の人たちは、庶民は木のカップで、ピューターのフラゴンやビーカー、ゴブレットのたぐいは王侯貴族の使うものでした。
ガラスで飲むよりビールがずっとうまくなる。ドイツのミュンヘンの旧市街にある何百年もやっているレストランはピューターの皿で料理が出てくる。オーストリアかいわいで最高の貴族的贅沢は、ピューターのバスタブです。身体へのあたりが柔らかく、保温効果に優れ、イオン効果で水がまろやかになる。
日本でも、昔は成功した画家や美術に関心のある上流の西洋館には、必ずピューターの骨董があったものです。大正時代の油絵にも、木版画にも必ず静物として描かれている。それが世代替わりで理解されなくなり、二足三文で出回る。
「なんだか灰色の汚い金属だ。」
「はい。私がいただきます。(爆)」
それで、夜、仕事に区切りがついたころ、ランプを付けてビールを飲む。また楽しからずや。後ろでウイーンフィルでも鳴っていれば言うことありません。
ナポレオン・ボナパルトは「王冠はドブに落ちていた、自分はそれを拾って洗って被っただけだ」と言っていた(爆)。王冠は落ちていないでしょうが、楽しい生活の素は探せばけっこう落ちている。
目指せ貧乏貴族(笑)。
これに関しては、ヨーロッパでは英国が一位、イタリアが2位ではないか?と密かに思っている。
これはたぶん、7つの海を支配した大英帝国が没落してゆく中で、『生活の質を落とさず、支出をびっくりするほど減らす方法』を生み出したのではないかと思う。
彼らは金をかけず、「social respectability」を減ぜず、楽しくやるのが巧い。
ワイシャツで襟が白くて他がストライプのものはおしゃれですが、あれはもともと、襟と袖口が一番傷むので、そこだけを交換したのがはじまり。
仲間で、お屋敷の最上階に後付で作られた画室に住んでいるのがいた。四方がくもりガラスの窓で、かなり変わった部屋のため借り手がつかなかった。そこへ彼は入り、中をやりなおした。
古道具屋から、絨毯の古い奴を買ってきて、デッキブラシで道路で洗った。絨毯というのは、ほんとうに良い奴は、毛が一本づつ縛ってあるので抜けません。それが使いこまれて、チビたものほど値打ちがある。
長年のホコリと汚れを落として、なかなか素晴らしい絨毯になりました。
彼はそれが乾くまでの間、壁をペンキで塗り、乾いて綺麗になった絨毯を入れると、なんだかものすごい本格の有名画家のアトリエのようになった。彼は家賃は3万円ぐらいしか払っていませんでした。
今度はどこかから、古い額縁を3000円ぐらいで買ってきて、知り合いに金箔押しをやって、味を落とさないくらいにしてもらっていた。中には彼が敬愛するヴュイヤールの複製画を入れた。額縁はまだヴュイヤールが生きていた時代のもの。すべてがホンモノだったら数億円でしょう。
私の骨董のお師匠のGのところで、割れていて売れ残ったカポテモンテの花瓶を巧くエポキシで継いで、境目をうまく色調整して合わせたジンクホワイトで見えなくして、遠見には無傷のように見せ、中にビンを入れ庭で切ってきた花を活けていた。
イーゼルも椅子も安いのを買ってきて、緩んでいるのを締め直し、ワックスで磨き、彼自身絵を描くので、半完成の彼女のポートレートをイーゼルの上に置いていた。
出かけるときは、フィルのところで50ポンドで買った1930年代のローヤルエンフィールドの自転車。いや、良い生活してるな、と感心した。
使わせてもらっている一階のキッチンはヴイクトリア朝のものでかなり広い。
私はそこで感心したのは、彼らは合理的・実利的で、完璧を求めないから可能なのだと思った。壊れているのを買って直す。無傷完品、新品未使用品を高額で探さない。
書類を入れる引き出しがたくさんついた家具で、ウエリントンチェストというのがありますが、引き出しの足りないのを平気で使う。そして、何かの時に、ミッシングしている引き出しを職人に作らしてしまう。金具などはほぼ見分けのつかないものを、蚤の市で数百円で探し出す。
出来上がったら、売ってしまって、もうちょっといいのに買い替えたりする。
眼力一つの世界です。
私もじつはそれをやっている(笑)。原則として『人が騒ぐものは決して買わない』。いまどき、英国の古い自転車を買うのは的外れです。私はずいぶんへチンズを買いましたが、それは昔は騒ぐ人がいなくて安かったから。1987年ごろ、紙が巻かれた新品デッドストックのへチンズは過小評価されていて、6万円で買えた。ギロットなど(ジロットと書いてあるのは発音が誤っている)の中古のフレームは1万数千円だった。なんでこんなに安いのかな?とずいぶん買った。そういうのがあれよあれよと1990~2000年頃から高値を付けるようになった。
円も弱くなり、ツイード・ジャケット走行会で値が上がったものを今買うようなことは、私ならしない。今なら、過小評価されている買うべき自転車は他にある。
人が一生に稼ぐお金は有限ですが、買う対象物は自分の使える限度を超えていくらでもある。
日々使うもの、使えるものにこそ深い満足のゆくものを持つべきでしょう。使わない展示物に大枚をはたいても、決して豊かな雰囲気には浸れないと思う。
何ごとも、世の中が価値をみつける前のものを買うのがよい。ほんとうの豊かさは世間のものさしの中にはない場合が多い。豊かさは人がどういうかとは無縁のものですから。
私はこのごろ、濃い独逸ビールの小瓶かギネスのボトルを飲むので、大きいジョッキが不要になりました。小さいビーカーがないかな?と見ていたら、ドイツのピューターで出来たものが700円でありました(東京で)。ピューターは錫ですから材料代にもならないでしょう。「ヨーロッパで出るところへ出れば、2万円ぐらいするな」といういいやつでした。ピューターはかつて、水を美味くすると、日本などでも茶人が愛用した。井戸に錫を投げ込む人もあったほどです。ビールはピューターの容器で飲むと格段に美味い。しかし、『今出来のものはデザインがくどくて、使う気にならない』。古いもので良いものを探していました。
「よーすこう・こーが文明」のほうではお宝といえば『金・銀・銅』ですが、ギリシャ・ローマから中世までのヨーロッパはピューターも入っている。中世の人たちは、庶民は木のカップで、ピューターのフラゴンやビーカー、ゴブレットのたぐいは王侯貴族の使うものでした。
ガラスで飲むよりビールがずっとうまくなる。ドイツのミュンヘンの旧市街にある何百年もやっているレストランはピューターの皿で料理が出てくる。オーストリアかいわいで最高の貴族的贅沢は、ピューターのバスタブです。身体へのあたりが柔らかく、保温効果に優れ、イオン効果で水がまろやかになる。
日本でも、昔は成功した画家や美術に関心のある上流の西洋館には、必ずピューターの骨董があったものです。大正時代の油絵にも、木版画にも必ず静物として描かれている。それが世代替わりで理解されなくなり、二足三文で出回る。
「なんだか灰色の汚い金属だ。」
「はい。私がいただきます。(爆)」
それで、夜、仕事に区切りがついたころ、ランプを付けてビールを飲む。また楽しからずや。後ろでウイーンフィルでも鳴っていれば言うことありません。
ナポレオン・ボナパルトは「王冠はドブに落ちていた、自分はそれを拾って洗って被っただけだ」と言っていた(爆)。王冠は落ちていないでしょうが、楽しい生活の素は探せばけっこう落ちている。
目指せ貧乏貴族(笑)。