「なんでも高けりゃいい」というのは私はスタイルのない話だと思う。自分に良し悪しを見る目がないから価格を指針にする。あるいはスペックを頼りにする。
はじめてローマへ行ったとき、焙煎で有名な故しめぎさんの言う通り、かつてゲーテやドラクロア、スタンダール、ワーグナー、ロード・バイロン、アンデルセンも立ち寄った珈琲店へまっしぐらに行った。
壁にはみごとな油絵の小品がかかり、古風に正装した給仕がうやうやしく注文を取りに来た。
まさにヴイスコンティの映画の世界。
私はその時ふと気が付いたのですが、そのカフェの中では『時間は客の側にある』ということでした。日本の喫茶店では『喫茶店側に時間があって、店の時間を客が賃借りしている』感じがした。
つまり、サービスというもの、出てくる珈琲の豪華さ、いかにレアか?というような俗なことにエンターテインしてもらうのを期待して、行くと期待外れに終わる。そこは貴族的なのです。貴族は召使に楽しませてもらおうなどとは考えない。主体性は主人たる貴族それ自身の中にある。
最初の一回目は私は愚かしくもメニューで一番高い珈琲を頼んだ。それはアイス珈琲だったのですが、けっこう美味くはいっていた。氷も入っていない。たしかにそこ以外では飲んだことがない感じ。油も浮いていなければ、濁りもない。しかし味は深く、いやな苦さがない。
一杯飲んで、中をきょろきょろして30分ぐらいで出ました。私のほうにそこでもっとゆっくりする「心がなかった」今だったら小さいカナレットの画集をめくったり、ヴァザーリの画家列伝でも読みつつ時を過ごしたいと思う。
2度目はふつうに熱い珈琲を頼んだ。その時感じた奇妙な感覚は「イタリアの上流と英国の上流は行動パターンなども同じだな」という感じでした。そこで珈琲を飲むのは、ある意味、ロンドンの一流どころの老舗ホテルで紅茶を飲んでいるのと同じに思えた。
1980年代末までは、私はロンドンのヴイクトリア朝のステーションホテルで紅茶を飲むのが好きだった。値段も法外に高くなく、味もしっかりしていた。器は記憶にのこらないくらいのホテルウエア。しかしはっきりとした格式と高級感を感じさせた。
私が最初に英国へ行った時代、紅茶は19世紀からやっている、ウエイトレスがすべて黒い制服を着ている店で、ポットサービスで60円から80円だった。
イタリアに行くようになって、高級カフェか、6人ぐらいしか座れないバールのようなところか、両極端に行った。そこで発見したのは、フランスの「エキスプレス」とイタリアの「エスプレッソ」は味もまろやかさもまったく違うということ。
今はなくなったが、新宿の小田急線の駅の改札の手前にレナウンがカウンターのカフェをやっていた。あそこの珈琲はヨーロッパの味がした。
イタリアで、バールでクイッとドッピオ(ダブル)のエスプレッソを飲んでいた私が、北米式の珈琲が苦いだけで飲めない。砂糖とクリームとキャラメルをドバドバいれないと飲めたものではないと思う。
珈琲には本来、それ自体のかすかな甘さがある。故しめぎさんは、「最初の一口だけは騙されたと思って砂糖を入れないで、珈琲本来の甘さを感じてください。うちのは嫌な苦さがありませんから」と初めての人に言っていたのを思い出す。
私は昔から「ブレンドのまずい店で、ストレート珈琲がうまいはずはない。ストレートのほうが回転が悪いのだから」と言っていた。
さるやんごとなき方へお菓子を収めていた高名な和菓子の職人さんが、骨董仲間だったので、毎年、ダージリンのファーストフラッシュの極上品をくれていました。さて、「よさはわかる」んですが、あれは英国紅茶とはかなり違ったもので、緑茶を知っている日本人としては、極上の緑茶のほうがいいと思った。
いつもアッサムの無農薬とブレンドしていた(笑)。
私はあれをありがたがるのは一種のSnobだと思っている。ストレートで飲むと色は薄いのに渋味は強く(pungentと言います)、たしかに身体はスッキリするが、ミルクを入れると不味い。あのストレートで飲んだシャッキリ感は、最上等の緑茶でも同じです。これがないムワムワ紅茶は気持ちが悪い。それを香料まみれにしているともう最低。
さて、数日前から北米系の店で一杯2000円の珈琲を売るという。彼らが創業するはるか前から珈琲を飲んでいた私としては、いままでの彼らの味からして、まったく期待していない。写真で確認したら、カップ・ソーサーすらなくて、カップをプラスチックのトレイの上にいきなり置いている。「アメリカの野蛮な風習だな」と思う。どうやって淹れるのか?熟練の人がネルドリップでもするのか?(爆)英国のように、純銀のトレイの上に一式を載せ、アイロンをかけた新聞も正装した人が持ってきてくれるのか?
それは1000円のハンバーガーと同じなのではないか?1000円ならば、私は最高級の和牛霜降りステーキを買って、自分で薄切りのガーリックと塩コショウで自宅で焼いたほうがいいと思う。
はじめてローマへ行ったとき、焙煎で有名な故しめぎさんの言う通り、かつてゲーテやドラクロア、スタンダール、ワーグナー、ロード・バイロン、アンデルセンも立ち寄った珈琲店へまっしぐらに行った。
壁にはみごとな油絵の小品がかかり、古風に正装した給仕がうやうやしく注文を取りに来た。
まさにヴイスコンティの映画の世界。
私はその時ふと気が付いたのですが、そのカフェの中では『時間は客の側にある』ということでした。日本の喫茶店では『喫茶店側に時間があって、店の時間を客が賃借りしている』感じがした。
つまり、サービスというもの、出てくる珈琲の豪華さ、いかにレアか?というような俗なことにエンターテインしてもらうのを期待して、行くと期待外れに終わる。そこは貴族的なのです。貴族は召使に楽しませてもらおうなどとは考えない。主体性は主人たる貴族それ自身の中にある。
最初の一回目は私は愚かしくもメニューで一番高い珈琲を頼んだ。それはアイス珈琲だったのですが、けっこう美味くはいっていた。氷も入っていない。たしかにそこ以外では飲んだことがない感じ。油も浮いていなければ、濁りもない。しかし味は深く、いやな苦さがない。
一杯飲んで、中をきょろきょろして30分ぐらいで出ました。私のほうにそこでもっとゆっくりする「心がなかった」今だったら小さいカナレットの画集をめくったり、ヴァザーリの画家列伝でも読みつつ時を過ごしたいと思う。
2度目はふつうに熱い珈琲を頼んだ。その時感じた奇妙な感覚は「イタリアの上流と英国の上流は行動パターンなども同じだな」という感じでした。そこで珈琲を飲むのは、ある意味、ロンドンの一流どころの老舗ホテルで紅茶を飲んでいるのと同じに思えた。
1980年代末までは、私はロンドンのヴイクトリア朝のステーションホテルで紅茶を飲むのが好きだった。値段も法外に高くなく、味もしっかりしていた。器は記憶にのこらないくらいのホテルウエア。しかしはっきりとした格式と高級感を感じさせた。
私が最初に英国へ行った時代、紅茶は19世紀からやっている、ウエイトレスがすべて黒い制服を着ている店で、ポットサービスで60円から80円だった。
イタリアに行くようになって、高級カフェか、6人ぐらいしか座れないバールのようなところか、両極端に行った。そこで発見したのは、フランスの「エキスプレス」とイタリアの「エスプレッソ」は味もまろやかさもまったく違うということ。
今はなくなったが、新宿の小田急線の駅の改札の手前にレナウンがカウンターのカフェをやっていた。あそこの珈琲はヨーロッパの味がした。
イタリアで、バールでクイッとドッピオ(ダブル)のエスプレッソを飲んでいた私が、北米式の珈琲が苦いだけで飲めない。砂糖とクリームとキャラメルをドバドバいれないと飲めたものではないと思う。
珈琲には本来、それ自体のかすかな甘さがある。故しめぎさんは、「最初の一口だけは騙されたと思って砂糖を入れないで、珈琲本来の甘さを感じてください。うちのは嫌な苦さがありませんから」と初めての人に言っていたのを思い出す。
私は昔から「ブレンドのまずい店で、ストレート珈琲がうまいはずはない。ストレートのほうが回転が悪いのだから」と言っていた。
さるやんごとなき方へお菓子を収めていた高名な和菓子の職人さんが、骨董仲間だったので、毎年、ダージリンのファーストフラッシュの極上品をくれていました。さて、「よさはわかる」んですが、あれは英国紅茶とはかなり違ったもので、緑茶を知っている日本人としては、極上の緑茶のほうがいいと思った。
いつもアッサムの無農薬とブレンドしていた(笑)。
私はあれをありがたがるのは一種のSnobだと思っている。ストレートで飲むと色は薄いのに渋味は強く(pungentと言います)、たしかに身体はスッキリするが、ミルクを入れると不味い。あのストレートで飲んだシャッキリ感は、最上等の緑茶でも同じです。これがないムワムワ紅茶は気持ちが悪い。それを香料まみれにしているともう最低。
さて、数日前から北米系の店で一杯2000円の珈琲を売るという。彼らが創業するはるか前から珈琲を飲んでいた私としては、いままでの彼らの味からして、まったく期待していない。写真で確認したら、カップ・ソーサーすらなくて、カップをプラスチックのトレイの上にいきなり置いている。「アメリカの野蛮な風習だな」と思う。どうやって淹れるのか?熟練の人がネルドリップでもするのか?(爆)英国のように、純銀のトレイの上に一式を載せ、アイロンをかけた新聞も正装した人が持ってきてくれるのか?
それは1000円のハンバーガーと同じなのではないか?1000円ならば、私は最高級の和牛霜降りステーキを買って、自分で薄切りのガーリックと塩コショウで自宅で焼いたほうがいいと思う。