私の人生の師とでもいうべき男がいるのですが、彼の家はじつに落ち着く。古ぼけているのだけれど汚くはない。庭は芝生のあちこちに野の花が咲き、背の高い草は背丈ほどある。
私が窓から外を見ていたら、隣に来て「すこし芝刈りをしたほうがいいかもしれない」と一言。もちろん冗談。そういう状況ではないほど野生のまま。
彼からしたら、芝刈りをするぐらいなら友人とモーニング・コーヒーをしていたほうがいい具合なのでしょう。
クルマなども割り切っていて、ROYAL MAILの払下げの赤い自動車に乗っている。
「これはなぁ、R&F,すばらしいよ。まず郵便が盗まれないように、表へ出てドアを閉めると自動的にカギがかかるんだ。ものぐさなオレにはちょうどいい。こんなクルマほかにないぜ。しかも、もうドアに何も書いていないにもかかわらず、色がそのままだから保護色なんだ。警官は文字のシールがはがれた郵便配達自動車かもしれないと、心に迷いが出るんだろうな。いままでに一度も駐車違反のチケットを切られたことがない。」
おおよそ常識的なことは何一つしていない。テレビは彼の家にはない。リサイクル屋などで一冊30円ぐらいの古典の本をよく買って読んでいる。
つまりインプットされるのは18~19世紀のイングランドの知識人のマインド、毎日目にする現代の光景をテレビなどの既成概念を通さずに自己判断している。
我々がどこかの山荘へ行ったとき、豪華な食器も家具もなく、あたりの自然を楽しんで、現代的な日常を離れて、生活するようなもの。それが彼の日常になっている。
ただ、使っているものは、安いながらもすごく厳選され、趣味が良い。だから、名のある画家や陶芸家がよく遊びに来て泊まっている。
他の人が高価なクルマを買うのをしり目に、中東の古い都市の城塞のてっぺんの部屋に数か月生活し、窓からひもでカゴをおろして買い物をするような場所に夏の間住んだりする。
「工具をいれる作業机が欲しい」と彼が言うので、買いにつきあったことがある。
古びた作業机を見て、
「いい味だな。引き出しの取っ手がみんなちぐはぐなのがたまらないな。全部同じだったらつまらないじゃないか。これは『取っ手のコレクション』を買うも同じだ。これほどの100年以上前の取っ手を集めるのはたいへんだぜ。この引き出しがひとつだけ違うのが入っているのもなんか意味ありげだな。深い由緒を感じるよ。これに決めた。」
私は爆笑した。まず日本の人なら99%無傷完品、取っ手の金具も全部同じでないと嫌だというでしょう。彼はまったく違うところを見ている。
彼の見つけてくる古物はどれも明るい。陰気な古物が一つもない。陽気な古物。
その彼が80年物のロードスターを、隠居する老人の自転車店から買った。
「不思議な乗りやすさがあるんだ。ハンドルの曲がりもしっくりくるし、グリップもこんな太いラバーのはいまないだろう?中に空気室があるらしい(コンストリクター製)、手にやさしいよ。このやせ馬の背中のような革サドルも妙にピッタリだ。偶然とはいえ、前の持ち主はオレと尻の形がまったく同じだったらしい。このくらい年季が入っていたら泥棒も手を出さない。エナメルもここまで塗りたくられていると、ロールスロイスのリムジン塗装も顔負けだろう?溶岩のように固いぞ。」
それに嬉々として乗って彼はモーニング珈琲を飲みに行く。
「次のホリデーはいつとるんだい?」
「My life is a holiday.」
これは西洋版の寒山拾得のようだ。