いまから20年ほど前、ドイツにいた友人がガンの闘病をしていました。その友人が、自分の持っている本や腕時計などを、どんどん人にあげていた。
私はそばで見ていて、生前の形見分けのようで、なんとも胸が詰まった。
しかし、本人はいたって快活で、「不要なものはどんどん切り離す。ものも、人すらもね」と言っていた。
共通の友人たちのうちでも「もう手紙がこなくなった」という人が多かったのですが、まだまだ当人は元気そうに見えました。
やがて、その友人が自分の住んでいたフラットを売ったという話が来た。「あまり大きい場所はもう自分には必要ないから」ということでした。
やがて、手紙の本数が減り、家族に電話をすると、手紙を書けないくらい弱っているといわれました。
最後のころは自分の人生を締めくくる絶対必要なものだけに集中しているように見えた。
お世辞も、追従の無駄話も、世間の雑事も、すべて離れた生き方でした。
なんだか澄み切って純粋な哲学的な世界を生きているような具合だった。
現代日本だとできるかな?難しいと思います。
多くの場合、病や高齢のために仕事が出来なくなると、けっこう厭世的になる人が多い。
ましてや、ライフワークに取り掛かれない状況はつらいでしょう。
昔、作曲家マーラーの映画を見て、走っている列車が人生そのもの。終着駅は死という演出のものをやっていた。カードやったり、雑談をしたりしているうちに終着駅についてしまうのがいいのか?あるいはコンパートメントに向かい合った人たちと深い話をしつつ、達成感をもって終着駅につくのがいいのか?
これは人それぞれでしょう。
私も歳をとるにしたがって、だんだん「時間つぶし」が虚しく思えてやらなくなってきた。
私より少し上の人(かなりかもしれない)と昨晩は会って、どうにもないとまとまらない部品をわけてもらった。そのあとは1時間半ばかり雑談。
彼はもう金銭的なものには一切執着がないと言っていた。なのできわめて会っていて澄み切っている感じがする。旅行ももうあまり行きたいと思わないという。今この場所で、会いたい人とだけ会って充実した時間が過ごせればいいという。
不思議なもので、そういう気分は伝染する。
現在の生活・日常に満足している人特有の余裕というのの存在をこのごろよく感じます。
そうした澄み切ったものが引き出される人とだけ会っていたい気がする。
その人、最近童謡にめざめたという話が出ました。童謡がじつにこころおだやかな境地にしてくれて、ストレスが消えてホッとするという。
それはよくわかる気がする。英語でいう「人間性のよきもの」を引き出してくれる童謡というのがある気がする。
これは童話もそうでしょう。フランスではラ・フォンテーヌの童話というのは完璧な文学作品で、あまりに完璧すぎて、大人にはむしろわかりづらい、という人がいる。
そういうところへたどりつくと、風船のようにふわふわ地上を離れてしまうのかもしれないと思います。
それがけっこう理想的なのではないか?
私はそばで見ていて、生前の形見分けのようで、なんとも胸が詰まった。
しかし、本人はいたって快活で、「不要なものはどんどん切り離す。ものも、人すらもね」と言っていた。
共通の友人たちのうちでも「もう手紙がこなくなった」という人が多かったのですが、まだまだ当人は元気そうに見えました。
やがて、その友人が自分の住んでいたフラットを売ったという話が来た。「あまり大きい場所はもう自分には必要ないから」ということでした。
やがて、手紙の本数が減り、家族に電話をすると、手紙を書けないくらい弱っているといわれました。
最後のころは自分の人生を締めくくる絶対必要なものだけに集中しているように見えた。
お世辞も、追従の無駄話も、世間の雑事も、すべて離れた生き方でした。
なんだか澄み切って純粋な哲学的な世界を生きているような具合だった。
現代日本だとできるかな?難しいと思います。
多くの場合、病や高齢のために仕事が出来なくなると、けっこう厭世的になる人が多い。
ましてや、ライフワークに取り掛かれない状況はつらいでしょう。
昔、作曲家マーラーの映画を見て、走っている列車が人生そのもの。終着駅は死という演出のものをやっていた。カードやったり、雑談をしたりしているうちに終着駅についてしまうのがいいのか?あるいはコンパートメントに向かい合った人たちと深い話をしつつ、達成感をもって終着駅につくのがいいのか?
これは人それぞれでしょう。
私も歳をとるにしたがって、だんだん「時間つぶし」が虚しく思えてやらなくなってきた。
私より少し上の人(かなりかもしれない)と昨晩は会って、どうにもないとまとまらない部品をわけてもらった。そのあとは1時間半ばかり雑談。
彼はもう金銭的なものには一切執着がないと言っていた。なのできわめて会っていて澄み切っている感じがする。旅行ももうあまり行きたいと思わないという。今この場所で、会いたい人とだけ会って充実した時間が過ごせればいいという。
不思議なもので、そういう気分は伝染する。
現在の生活・日常に満足している人特有の余裕というのの存在をこのごろよく感じます。
そうした澄み切ったものが引き出される人とだけ会っていたい気がする。
その人、最近童謡にめざめたという話が出ました。童謡がじつにこころおだやかな境地にしてくれて、ストレスが消えてホッとするという。
それはよくわかる気がする。英語でいう「人間性のよきもの」を引き出してくれる童謡というのがある気がする。
これは童話もそうでしょう。フランスではラ・フォンテーヌの童話というのは完璧な文学作品で、あまりに完璧すぎて、大人にはむしろわかりづらい、という人がいる。
そういうところへたどりつくと、風船のようにふわふわ地上を離れてしまうのかもしれないと思います。
それがけっこう理想的なのではないか?