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Channel: 英国式自転車生活
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Coming to its close

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今日なじみの喫茶店へ行ったところ、しんみりとする告白を。ご主人の目が見えなくなってきているというのです。

「だんだん視野が狭くなってきていて、治療法はない、と言われました。左はもうほとんど見えないんです。あと1年か2年か、わかりませんけれど。どうも自宅へ戻ると、夜は住宅地だから暗くて、静かで、さびしくってね。いまのうちにと思って古い映画を気が向くと見たりしています。」

その方、若いころにヨーロッパを旅している。その方、都内の高級住宅地の自宅に帰る気がしないといいます。自分で作り上げた世界がもっとも居心地がいい。ある意味、そこは単なる『営業の場所』ではない。

これはあらゆる分野でそうですが、その人の個性に帰着するものは、その人が辞めたときに消滅する。

それはいつまでも続くものではない。店も、工房も。芸術も、文化も。

昔、スペイン人に、中米の一部には、ものすごく古風なスペイン語を話す人がいる、と聞いたことがある。同じことはフランス人もアフリカの一部でそういうことがあると言っていた。

私なども、1900~1951年ぐらいまでの英国のことばかりやっていたので、その時代のさまざまなものがこびりついている気がする。

ただ、どうも最近、自分は、英国にせよ、フランスにせよ、イタリアにせよ、『そのまま移植』というのに抵抗を感じてならない。

鴎外は日本を「普請中」と言いましたが。それが良い建築になるのか?あるいは完成できない無理な代物になるのか?

それが木に竹を接ぐようであってはいけない。

昔、ジョデイ・フォスターの映画で、宇宙でものすごく懐かしい光景を見るのだけれど、それが偽物だと気が付くシーンがありました。あれはけっこう意味深い。

最近は自分がますます、『いまここで存在している物』にしか心を動かされないのを感じます。

それは高度の知性の人が、全存在をかけて、『その時代の周囲の世界と、しっかり対峙できる何ものかを作り上げたことこそが文化そのもの』という風に私は考える。

たとえば、シトローエン2CVほど、純粋にある目的の自動車を思索して、独自に『進化樹』の上で独特の地位を確立した自動車は思い浮かばない。性能では容易にそれを超えられるかもしれない、しかし文化の域にたどりついている自動車を私は見ない。

フンデルトワッサーは「神は直線に宿らない」と言いましたが、これは「神はコンピューターの曲線や雲形定規の線に宿らない」と私なら考える。これは大樹の洞にすむフクロウを考えてみればよい。ただの丸い穴をあけた四角い箱と自然が作り出した洞とどちらが住みよいのか?四角い箱以外に住処がなくなったらフクロウも絶滅が心配されるかもしれない。自然に溶け込むものでないと幸福感は決して出ないでしょう。

そこに地域性がからんでくる。

エリック・サテイがワーグナーにあこがれるドビュシーに、「しかし、あれは『我々のものじゃないんだよ』と言ったとか。

私は心中複雑です。ある建築家が、「今の東京の大きい店で、今のものを見ても何一つ欲しいものがない」と私に言ったことがある。これは都市の現代的な部分でもそう言えるかもしれない。そこで、英国なり、フランスなりの古き良き時代へ「逃避する行動」がそうしたレトロ嗜好なのかもしれない。

都市でも乗り物でも住宅でもものでも。

それを種に、現代で通用する『強い苗木』を育てないとほんとうのところの問題解決にはならないように私には思えるのです。日本の現代都市風景に感じる「偽物感」、「不完全燃焼感」、「なまぬるさ」の根はそのあたりにあると思う。

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