じつはここ半年ばかりずいぶんパソコンで苦戦していました。なんと13年!も使った。みんな、「よくそんなに持ちますね」といいますが、それはたぶん私が機械式のタイプライターでブラインドで打てるようになって、そのあとはずっとIBMの電子タイプライターを使っていたからだろうと思います。
最近のコンピューター・キーボード世代と違って、「パシッ」とか言ってキーを叩かない。指の圧力を加減して、出にくい活字は強く、アームの短いところは弱く、という加減が機械式には必要でした。
なので、13年使っても、キーボードの文字はすべてはっきり読める。ボードからのショックが少なかった。あとは夏とかは下駄をはかせて、下にタオルにくるんだアイスノンを置いていた。
これで13年もった。
ただ今度のもの、というか最新のものは使いづらい。私のなじみのないキーボードが右についている。画面は横長で不必要に長い。両端が白い余白になっている。ゲームだのテレビだのをPCで使う人は横長画面も必要でしょうが、私のような人間には鬱陶しいだけ。左右の余白が目に入ってうるさい。
それと、全体の重量がたいそう軽く、金属部品が少ないか感じがする。たぶん重さは3分の一ぐらいなのではないか?これはFAXなどでも経験がありますが、金属部品の少ない電気物は寿命が短い。たぶん、今回の新型は13年なんて使えないでしょう。6年待たずしてダメになるのではないか?
古いのはもう動きも遅く、固まることも多かったのですが、だましだまし使っていた。新型で楽になったか?というとそんなことはない。ところが、新型はあきらかに画面の文字が読みづらい。キーボードのタッチも悪い。使用感が安っぽい。
大胆に言ってしまうと、自転車の変速機などでもそうですが、「機械というのは、性能とスペックをあげて、品質を下げることが可能」なのです。
たとえば、われわれ機械屋からすると、販売された当時、今の貨幣価値に換算すると1千万円超級のヒルマンミンクスの作りこみはすごい。しかし、性能やスペックでは現代の安普請の車に到底及ばない。
しかし、人間の満足というのは、私はきわめて感性的な部分に左右されていると思う。それはスペックや性能では満足されられ切れない何ものかが残る。
自動車の最高速度とか燃費とか、さまざまなことを別にして、運転席に座った視界からシート、スイッチ類の手触りにいたるまで、ローヴァーP4,P5あるいはアームストロング・シドレーなどから較べたら、現代日本の国産上級サルーンはまったく比較するにも無個性な感じ。お話にならない。その差から較べたら、プリウスとクラウンの運転席のクオリテイーの差は私にはゼロに等しく思える。
しかし、自動車やモーターサイクルは、その性能がきわめて決定的なのです。
全世界的に、いまだに高級なスチールフレームの古い自転車が根強い人気を誇っているのは、自転車の場合、80年前、90年前のものでも、決定的な性能差はほとんどない場合が多いからだと思います。
私はロード・オヴ・ザ・エイヴォン博士の車両の集まりに、1937年生のBATESで行きましたが、むしろ速かったぐらい。
自転車の世界というのは、ある意味、完成し尽されたもので、何かを進歩させようとすると別のものを犠牲にせざる負えないのではないかと思う。
9段、10段が出てきたとき、フリーのスパイダーアームは私自身割ったし、チェンは切ったし、しかもトップ側で年中キリキリきしんでいる感じ。いまだに、乗り始めた時からすでにリア8段が普通だった世代の人たちが、リア3段とか4段とか5段に乗ると、その『静かさ』とトルクの無理のないかかりかたに感心する。
さて、パソコンの引っ越しにはすっかり2時間半かかりました。この13年でずいぶん、多機能になり、めんどうになった。13年後にはパソコンの引っ越しなど自分ではわからないだろうし、そういう変化を常に高齢になっても追いかけていなければいけないというのは、ある意味すでに人生の重要な部分を取り落していると私は考える。いや、それ以前にパソコンが壊れたら、「もうパソコンなんかいらねえや」と思うかもしれない。ガラケーでブログアップで充分なのではないか?
最近のコンピューター・キーボード世代と違って、「パシッ」とか言ってキーを叩かない。指の圧力を加減して、出にくい活字は強く、アームの短いところは弱く、という加減が機械式には必要でした。
なので、13年使っても、キーボードの文字はすべてはっきり読める。ボードからのショックが少なかった。あとは夏とかは下駄をはかせて、下にタオルにくるんだアイスノンを置いていた。
これで13年もった。
ただ今度のもの、というか最新のものは使いづらい。私のなじみのないキーボードが右についている。画面は横長で不必要に長い。両端が白い余白になっている。ゲームだのテレビだのをPCで使う人は横長画面も必要でしょうが、私のような人間には鬱陶しいだけ。左右の余白が目に入ってうるさい。
それと、全体の重量がたいそう軽く、金属部品が少ないか感じがする。たぶん重さは3分の一ぐらいなのではないか?これはFAXなどでも経験がありますが、金属部品の少ない電気物は寿命が短い。たぶん、今回の新型は13年なんて使えないでしょう。6年待たずしてダメになるのではないか?
古いのはもう動きも遅く、固まることも多かったのですが、だましだまし使っていた。新型で楽になったか?というとそんなことはない。ところが、新型はあきらかに画面の文字が読みづらい。キーボードのタッチも悪い。使用感が安っぽい。
大胆に言ってしまうと、自転車の変速機などでもそうですが、「機械というのは、性能とスペックをあげて、品質を下げることが可能」なのです。
たとえば、われわれ機械屋からすると、販売された当時、今の貨幣価値に換算すると1千万円超級のヒルマンミンクスの作りこみはすごい。しかし、性能やスペックでは現代の安普請の車に到底及ばない。
しかし、人間の満足というのは、私はきわめて感性的な部分に左右されていると思う。それはスペックや性能では満足されられ切れない何ものかが残る。
自動車の最高速度とか燃費とか、さまざまなことを別にして、運転席に座った視界からシート、スイッチ類の手触りにいたるまで、ローヴァーP4,P5あるいはアームストロング・シドレーなどから較べたら、現代日本の国産上級サルーンはまったく比較するにも無個性な感じ。お話にならない。その差から較べたら、プリウスとクラウンの運転席のクオリテイーの差は私にはゼロに等しく思える。
しかし、自動車やモーターサイクルは、その性能がきわめて決定的なのです。
全世界的に、いまだに高級なスチールフレームの古い自転車が根強い人気を誇っているのは、自転車の場合、80年前、90年前のものでも、決定的な性能差はほとんどない場合が多いからだと思います。
私はロード・オヴ・ザ・エイヴォン博士の車両の集まりに、1937年生のBATESで行きましたが、むしろ速かったぐらい。
自転車の世界というのは、ある意味、完成し尽されたもので、何かを進歩させようとすると別のものを犠牲にせざる負えないのではないかと思う。
9段、10段が出てきたとき、フリーのスパイダーアームは私自身割ったし、チェンは切ったし、しかもトップ側で年中キリキリきしんでいる感じ。いまだに、乗り始めた時からすでにリア8段が普通だった世代の人たちが、リア3段とか4段とか5段に乗ると、その『静かさ』とトルクの無理のないかかりかたに感心する。
さて、パソコンの引っ越しにはすっかり2時間半かかりました。この13年でずいぶん、多機能になり、めんどうになった。13年後にはパソコンの引っ越しなど自分ではわからないだろうし、そういう変化を常に高齢になっても追いかけていなければいけないというのは、ある意味すでに人生の重要な部分を取り落していると私は考える。いや、それ以前にパソコンが壊れたら、「もうパソコンなんかいらねえや」と思うかもしれない。ガラケーでブログアップで充分なのではないか?