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Channel: 英国式自転車生活
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自然の機嫌

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このところ自然を見ていて、なんだか「荒ぶる恐ろしさ」を感じることがよくあります。こういう感じはいままでなかなか感じることがありませんでした。

なんというのか、自然が怒っている感じと言いましょうか。

自転車や登山で山の中に入って行っても、自然に包み込まれているやすらぎを感じたものです。ところがここのところ、なんだか恐ろしいものが、見えないところで動いている感じがしてなりません。

ある友人が最近は、山や森のなかに入ってゆくのが怖いと言っていましたが、私もわかる気がします。

何十年も人間をやってきていますが、この日曜日の空も、ちょっと見たことがないような変な空でした。なんだか野村萬斎さんの「陰陽師」のCGの空のようでした。遠くでピカピカ稲光もしていました。

気味が悪い空なので、仲間と蕎麦屋へ避難してやりすごしました。

さらなる地震などがこないといいな、と思うばかりです。

生活に必要なもの

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土曜日は28号写しを持っている人たちでプチ集会を考えていたのですが、あいにくの雨。二人ばかりで喫茶店へしけこみました。

日曜日はみんな同じことを考えて、「晴れたから出てきた」とのこと。急遽三台で集合。ちょっと新しい寸法の28号写しに乗ってもらいました。角度とか寸法を微妙に変えています。

自動車の大メーカーのようなフラット・トラック・シュミレーターなどはないので、かなりうるさい人たちに乗ってもらいます。私自身そうとううるさいのですが、公平をきするために、何人かに乗ってもらいます。その後、今度はビギナーや普通の人にも乗ってもらいます。そんなことをしながら詰めてゆく。

なにも説明しないで、渡したのですが、「ヘッドアングルやオフセットとリアのチェンステーの長さが関連付けられているのがはっきり感じられる。この挙動の素直さは長距離で疲れ方にずいぶん差が出るでしょうね」との話。まずは私の考えた通りにうまく出来上がりました。

いまだに私のところに「古い英国の自転車」とか、「英国流のなんとか・かんとか」とか言う話がきますが、実際のところ、英国に学びはしたものの、それを「日本の語法で、現代の物として再構築する」ことにしか、今の私には関心がありません。

英国にいた時、私はロードスターで旅行していました。それは非常に具合が良いものでした。しかし、電車に自転車がそのまま積めない日本では、それを持って来ても不自由なことが多い。日本で使うならもっと軽く、タイヤも簡単にはずせるものが欲しい。輪行の可能なもので、乗り味はロードスターのようで、とりまわしが楽で、もっと脚がのばせるもの。

そういう自転車はじつはヨーロッパにもまったくないのです。

これはショーの試乗で、あるいは私のところで乗った方はすべてご存知だろうと思います。今回の車輌にはカンパのカンティ・ブレーキがついていますが、ロードのブレーキと同じように「カツンと節度ある感じ」でシューがリムに当たり、最初はじわりと、にぎるとかなり強力なブレーキの利き具合です。ヨーロッパのロードスター、あるいはそれに類する大陸旅行用車輌で、こうしたかなり高性能なレーサーなみのタッチを持ったブレーキが付いている車輌はまずありません。

乗車ポジションは、伝統的なロードスター。足回りはレーサーなみ。ふつうは旋回性能などは、アップ・ハンドルの車輌はドロップの競技車輌にくらべて不利になりやすいのですが、それはフレームのスケルトンでカバーしています。『旋回中はリアのホイールとフロントのホイールは違う円弧を描いて旋回しており、リアのホイールをどのくらい傾かせ、そのコーナリング・フォースをどのように使うか?というのは、けっこう難しい技術的な問題です。前車輪のコーナリング・フォースと後車輪のコーナリング・フォースはどのくらいの比率が良いのか?

ショーへメジャーを持って来て、28号の各部寸法を計っている非常識なひとがいました。しかし、その程度で盗めるノウハウではありません。

私は、運動に、旅行に、毎日の個人の移動に、28号は絶対必要なものなのです。それは英国の名車を所有して「英国人になりすます」ためのものではありません。「英国自転車の真似でもない」。「貴重部品てんこ盛りの床の間自転車でもありません。」

フランク・パターソンの絵を見ていると、自転車が最新型の部品でないといけないとか、どこのブランドでないとはばがきかないとか、そういう議論が一切むなしくなる。あまりに豊かな自転車を軸としたライフスタイルが絵の中にあるのです。

さて、そうした自転車ライフを築くのに、趣味性が高く、地味ななかに、使うほどにしみじみ深い充実感が湧き上がる自転車とは?日本の風土で使うのに、どういう風にまとめてゆけばよいのか?28号もバルケッタもともにそこに全力をそそいでいるのです。

一日、走りながら変速器などの微調整をして調子を出し、帰る頃にはかなり快適に飛ばしていました。もうにやけがとまらない。自転車というのは、そこに人間が乗らなければ完結しません。人間を離れた完璧な自転車などというのは存在しない。乗っている間、ただ快適さのみがあって、局所的な痛みもストレスもなく、「風に乗ったような、音も無く走り、音も無く停まる」そういうものがよいのではないか?

そこにいたるのは、じつは「裸の王様が見えるこどものようなとらわれのなさ」が必要な気がします。

2つの無印フレーム

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私のところに出入りしている一人に、かつてラヴァネロの選手だったのがいます。その彼が無印のロードレーサーを持っていまして、
「これ梶原フレームなんですよ。さすがですねぇ。しゃきっとして乗りやすい。たいしたもんです。」
「そうかな?ケロ美務R2にしかオレには見えんが。」
「そんなことはないですよ。だってあれはオーダー車じゃなく、セミオーダーだったじゃないですか。これを買った店の人は梶原フレームに間違いないって言ってました。」
「しかし、エヴァレストは流れ作業だったから、彼が一本丸々作ったフレームはじつは何本もないんだ。数十台いかないと思うよ。一方、親方はものすごい数を作ってたからな。量が質を変えたようなところがある。そもそも、あの二人は若い頃一緒にエンドを試作したりしていたんだから、作り方はよく似ている。親方のフレームは乗ってみると、独特のパリッとした感じがあるよ。彼のはくせがない素直なフレームだけど、ちょっとやさしい感じがするね。」

その彼氏をともなって親方のところへ、その自転車を持って行ったのでした。
「あ~、これはウチのフレームですよ。間違いない。エンドのとこの溶接でわかります。」
「え~~~っ、そうなんですかぁ。」
がっかりする彼(笑)。
「いや、いいフレームですよ。芸術的だよ。」
と親方。
「梶原フレームって言われて買ったんです。」
「カジハラは親友だけど、ウチのも同じくらいいいよ。負けませんよ。」
親方、眼鏡を持ち上げて、細部を観察。
「オレがやったのかな?おばさんがやったやつじゃないかな?」
さらに追い込む親方(笑)。
「え~~~~っ!そんな。」
「いや、ウチの奥さん溶接巧いですよ。息子より巧いよ。みんな家族で分業でやってたからね。R&Fさんみたいに後ろに立ってられたら、ボク一人でやりますけど。」

それと逆の話。ある自転車のレース会場でずいぶんスッキリした無印のロードがいました。「ん?」と思って私が見ているとオーナーが、
「どこのフレームだと思う?」
「カジハラさん(ワラとは言わない)のでしょ?」
「よくわかったね。」
「わかりますよ。親方のフレームによく似ているけど、ブリッジやエンドのやりかたが微妙に違う。ロウもたくさん使わない。溶接の前の加工がものすごく巧い。差込部分なんかを精密に作っておいて、あとは苦労なくロウが滲み込むようにしている。こんなに下準備が巧いビルダーはそうそういませんよ。」

古い自転車をやっていると、マークもバッジもないものがたくさんあります。そのなかでも、はっきり作り手がわかるものがあるのは面白いことです。私などはその意味、「フレーム自体がよければ、マークはおまけ」みたいなところがあります。ところがウチへ来ている人で、英国のゴシック・ラグの過剰装飾のフレームに乗っているのが、「ヘッドバッジがないものは考慮の外だ」というので私はにやけていました。やはり、そう考える人には「ラグレスの魅力」はなかなかわからないでしょう。

日本刀で無銘でいいものはいくらもある。見る人には銘だの転写シールなどは、のちのお化粧みたいなもので、最後の最後で良いと思う。やがてはうちも作ろうと思っていますが、それは刀の鍔のような、小宇宙のあるものにしたいと思います。

安物をあきらめる悲哀

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こういう趣味の世界にいると、「もっとも凝ったところの泥沼に落ちる」人をよく見かけます。

自転車でももっとも高級な、もっとも珍しいところへ行く。ところがそれがすべての満足を与えるか?というとそんなことはない。安くて気の利いたもののよさを「高級一辺倒」で逃がしてしまう。

私の父はよく、「サブのクルマ」として、スバル360の一番最初の太鼓型のアルミヘッドランプ、燃料キャップが黒いベークライトのスライド式のサイドウインドーのものとか、スミスのセンターメーターが付いているヒルマン・ミンクス、パブリカ800などをサブとして使っていました。ああいうクルマから得られる満足は最高のスポーツカーや高級サルーンでは絶対得られない。あれもまた必要な楽しみである気がします。

週末に、仲間が自分の自転車にサンツアーの変速器スキッターを付けると言い始めまして、これはマニアからするとかなり「変わった行動」と思われるでしょう。ヤフオクでも2千円ぐらいで買える、もうこれ以上したがない部品です。

ただ私などは、スキッターに魅かれる心理と言うのはよくわかります。コンパクトで壊れない。必要にしてかつ充分。懐かしい、真面目なカタチをしています。信頼性が高いので、昔はメーカー車によく使われていました。

さらにあまり一般には気がつかれていませんが、スキッターは変速器の歴史でたいへん重要なモデルだと私は考えています。それはあの変速器の変速感覚が、最上等のスライドシャフト式(プランジャー式、タケノコ・バネ変速器)の使用感とたいへんよく似ていて、しかもはるかに使ってよいということです。

サイクロのマーク3とか、ユーレーのルイゾン・ボベとか、三光舎のF1とかときわめて近い変速感覚です。しかし、レバーははるかに柔らかく、スライドシャフト特有の「粘る感じ」がしない。すごくよくできているのです。あれはローノーマルになれたスライドシャフトの変速器使用者をパラレログラム変速器へ取り込むために、サンツアーが練りに練った製品だと思います。初期のサンツアー・グランプリなどもそうです。グランプリは鋳物の本体が衝撃で割れることがあったのに、スキッターはプレスなので割れません。古いFUJIなどは良く使っていました。

私はじつは今日、カンパのオリンポスをサンツアーに付け替えました。なぜ?と訊かれると困るのですが、カンパはあまりに「良すぎる」(笑)。

カンパも7段~8段時代に入ると、チェンジがものすごくスムースになり、どのギアへでもストレスなく移るようになります。それとともに、カチッとギアへ入った感じは変速器ではなく「レバーが作る」感じになってきます。私は実はそれがつまらない。シマノはそれが極端に推し進められている気がします。シマノの変速感覚はレバーの感覚が決定している。サンツアーでもコマンドシフターなどは、かなり固いレバーがパキパキ言うのがどうにも面白くない。

このあいだ久しぶりにアルビーを使いましたが、面白いことに「外車の感じがする」んです。あれを好む人の気持ちはよくわかります。

この気持ちはどう表現したらよいのでしょう?ドンペリニヨンばかりで、ラムネの味が懐かしくなる感じとでも言ったら良いのでしょうか。

ダンヒルのローラライトやサヴォィ、ユニークなどのライターやデュポンとはまったく別の味わいがイムコのライターにあるようなものです。

ここをはずして、超高級車や名車のたぐいだけを自転車で集めている人は、「強力な養分の根っ子」を切り捨てているように思えるのです。本質をはずしている。

その人が、どのくらいリラックスした状態で、さりげないものを使っているかで、けっこうその人の造詣の深さと本質の掴み具合がわかる気がするのです。

科学盲信の愚

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けさ、まあ御苦労様なことに、朝の4時ごろに書き込んでいる人がいました。つまらないコメントなので削除しましたが、「いしゃ」のハンドルネームで「シュミレーターのほうがいいぞ」と一言あったのでした。

消したあと、ああ、コメントをかえしてやればよかったな、と思ったのは、この「いしゃ」さんは根本的に理解を誤ったところがあったので、そこをハッキリさせておくのは世の中のためになるかな?と思ったからでした。

自転車は人間が乗るもので、フラット・トラック・シュミレーターが自転車にまたがって走り回るものではありません(笑)。『こうした計測機械には股間が自転車で痛くなることも、首が痛くなることもない』ということなのです。また、『自転車が倒れないように走り続けるフィードバック能力』は機械は人間のようにはゆきません。

つまり、フラット・トラック・シュミレーターを使っても、自転車の「乗り心地」や「運転した爽快感」はそれでは計れないのです。

最近はM田製作所の機械が自転車に乗っている場面がテレビで流れていますが、では、自転車を止めず、走行中に自転車の上で後ろ向きになって逆走するようなことができるか?というと、これはとてつもなく難しいでしょう。それが3つ4つの連続技となると、たいへんなプログラミングが必要になる。

ロボットがサイクルサッカーを出来るようになる日が来て、人間に勝つ、というのはたいへん先の話のことのように思えます。また、ハンミョウやてんとう虫のように、ある程度自分で考え、歩き、飛び、食べるようなものを4mmとか8mmの大きさの機械でつくることはほぼ不可能でしょう。人間の身体のセンサーや感受性というものには、機械はとうていかなわない。

そうした人間が使うものである以上、自転車などの最終的な設計や仕上げは人間がテストするべきなのです。先の書き込み者は「いしゃ」というハンドルネームに反して、そういうことを考えなかったのかな、と思います。

覚えておられる方も多いかと思いますが、1970年代半ばに、鳥山新一先生が「シクロ・ポリテクニーク」という連載をされまして、変速器のチェンの乗り移り状態をオシログラフで出し、変速の具合のよしあしを科学的に調べるということをされたことがあります。

このなかで、私が面白いと思ったのは、そこにカンパのスーパーレコードが取り上げられていて、「本体の一部を黒いチタン製にしたために、本体のねじれが大きくなり、これによって性能が落ちている」と書いてあったことでした。ところが、そのスーパーレコードの本体はヌーヴォ・レコードと同じアルミ合金で、一部を黒アルマイト加工しただけでした。

その当時、私はシマノのクレーンを使っていましたが、こども心にも「節度のない変速感覚」で、半年ほどではずして付け替えていました。その頃はシマノが好きも嫌いもなく、「国産ですごい変速器が出た」という純粋な気持ちで買ったのでした。私の気持ちの中で残ってゆかなかった。しかし、一方で、直線的になったデザインの頃のスーパーレコードは、あきらかにヌーヴォレコード時代より変速の感覚がよくなっていて、感心したことがありました。

当時、鳥山先生は鳥山研究所というのをやっていたほか、あのZ印の自転車の設計をやっていました。私がZのおじいちゃんのところにゆくと、シマノの人たちもたまに鳥研の帰りに立ち寄ったのか、店にいた記憶があります。またZの常連はそうしたテスト結果を伝え聞くこともあったのでした。

ただ、私はクレーンのこともあり(これは半年ぐらいでガタがひどくなり、後ろから見ると斜めにひしゃげているくらいになりましたが)、ハイスピード走行用はカンパニョーロという私の車輌構成は揺らぎませんでした。オシログラフの結果は話半分ぐらいにしていたのです。

カンパニョーロの使い心地のよさというのは機械的数値では出ないのかもしれません。

一方のカンパニョーロのほうは、ヴァレンチノやアンジェロに聞いた時、まずはアマチュアの自転車クラブなどに試作品を渡して使ってみてもらい、それからプロの一部などにわたし、それらの意見を検討し、フィードバックさせてゆくということでした。意外なことにあのカンパが開発初期段階で一般アマチュアの声も参考にしているのです。

かつてサンツアーのチームにいてサンツアー、シマノの両方の内情をしる上坂卓郎氏が、「シマノはあえて自転車に詳しい人、自転車オタクを採用しない。ごく一般的な人を採用する傾向がある」とどこかに書いていましたが、最近までのシマノにはたしかにそういうところがあったように思えます。自転車関係者の間ではよく知られた話ですが、シマノのデュラエースのクランクは自転車関係専門家ではない、女性の工業デザイナーのデザインです。

これはかなり大胆な戦略で、たとえば自動車の世界で、ノッチバックもヘリカル・ツイストもAピラーというような用語も知らない人に自動車のボデイ・デザインをさせることはまずヨーロッパではないと思うのです。ところが、たとえば、飛行機などの場合には、完全に航空工学関係の専門家がかかわるので、「デザイン」が入り込む隙間がない。純粋に合目的なカタチをしているので、なんとも気持ちが良い。

これが私には非常に視覚的にも使った上でも最近の日本製に違和感を感じる一つの原因ではないか?と思うのです。日本の自動車でも完全に白家電化していて、計器版なども「ねずみ色のガステーブル」のようになってきている。日本がこれほどの自動車大国なのにもかかわらず、フェラーリやランボルギー二、アストン・マーチンのように、マニアと素人の両方をうならせる迫力のあるものが出てこない、モンテカルロやナポレオン街道へ乗ってゆくような、「人生高揚感あふれる製品」がみあたらない気がしてならないひとつの理由ではないのか。

自転車の完成車の最新型から、自転車愛好家が離れてかなり久しくなります。この自転車愛好家という定義もむずかしいのですが、長年やっているひとほど、最新型に乗らなくなっている気がします。それは昔からやっている人を「オタク」のレッテルで片付けるのは簡単ですが、私には最新型の車輌を追いかける人たちは、一般の人とは乖離したまた別種のオタクになりつつあるのではないかと思えます。

いつのころからか、「科学は進歩する」という神話が「新製品は科学的に進歩している」という幻想と一体化しているようですが、人間の感性の部分は進歩するわけではなく、味覚と同じでいつもそこに同じにあるわけです。むしろ化学調味料、合成薬品味にならされた味覚のほうが不正確に鈍っている場合も多い。

いままでの一生の大半を科学技術の方面で生活費を稼いできたわけですが、どうもこのごろは「科学盲信、科学技術盲信」が目に付いて仕方がありません。原発の問題も、その象徴的な出来事のように思えてならないのです。

*補遺、「シュミレーター」という単語が間違いであるかのように騒ぐ匿名の書き込みがありましたが、これはグーグルで検索してみれば18万件以上出てくる、すでに日本語化したカタカナ語ですので、これは訂正せずにのこしておきます。

パワーが貯まるまで待つ

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このところちょっとオーバーワーク気味なのと、ちょっと身体の具合が悪かったので、今日は休養日(昨日)にしていました。物を作っている人はみんな同じだと思いますが、気力の充実していない時に作ったものは、やはり「おしごと」になってしまって、気合が入らない。出来上がりの外側は似たようにはなっても物にこもっているパワーが違ってきます。ですので、私はそういう日はスパッと休みにします。これはモヤモヤとかイライラしている時も同じで、そういう時は邪気が入り、「妖輪」になる気がします。「おのれ~~~~」とか言って組んだもの、作ったものはよくない(笑)。

そうしたたら、ドアのベルが鳴り、はるばる他県から自転車を見たいと来た方がいました。

なんでもそうとう意を決して来たらしい。じつはあと10分遅かったら、自転車で徘徊に出かけていたところでした。ラッキー。すべてはタイミングですね。

私はノートと図面、封筒、便箋、その他を持って喫茶店で事務作業することがけっこうあります。

たまたま仲間のデザイナー、兼、映像関係のプロが、ぽっかり時間が空いていたので、ちょっとバルケッタで出かけて行き、意見を聞きました。モーターサイクルのほうはかなりやっている人なので、いつも、けっこう的確なコメントがかえってきます。

物づくりの人と会っているのは、たいへん刺戟になる。お互い「考える種」を拾えるのです。

この赤はたいへん男女を問わず評判が良い。あきがこない色だと思います。

彼女は自転車に興味津々、私は彼女の持っていた手製のバッグに興味津々。
「不思議なことやってるな~」とけっこう感心しました。ポケットがいくつもあるので、自転車に乗る時便利そうです。こういう自分のファッションを発信できるクリエイティヴな日常と言うのは、実はたいへん重要なことだと思う。

あまりに汚い自転車、汚い身なりでは「何か特殊な事情があってのこと」と思われるかもしれませんが、カッコ良い人が持てば、かなり斬新なファッションになりそうです。この阿吽の呼吸がこういうファッションはむずかしい。ロンドンで持ち歩けば、かなり流行るのではないか?と言う気がしました。

黄葉の時期

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いつも不思議に思うのですが、多摩に一本大銀杏があり、その木はほかのすべての銀杏が黄葉して、最後の最後に黄葉します。そして春に新芽が芽吹く時も、「枯れたんじゃないか?」と不安になるくらい、最後の最後に芽をふくのです。

まるでその木の周りだけは流れている時間が違うかのようです。

今日はちょっと黄葉の具合を見にいったのですが、まだみずみずしく緑色でした。不思議なことに、となりの銀杏の木は、すでに色づき始めていました。この場所が特別暖かいとかいうわけでもなさそうです。

かつてはここに神社があったのですが、いまはありません。神社が無くとも、そういう自然の不思議なちからを感じる場所です。

豆画集

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私が高校生の時代、これらの画集はすでに古本で、かなり珍しい部類にはいりました。

学生の頃は、画集がずいぶん高く感じたものでした。そういう私にとって、このシリーズは古本屋で200円ぐらいであって、ずいぶんと重宝しました。

編纂していたのは矢内原伊作とか、錚々たる人々。中に入っている絵は今の標準をもってしてもかなり高い。ここにあげたようなラプラードの絵は、いまだにこの画集に入っている以外にどこかに収録されているのを見たことがありません。

スゴンザックの水彩画もいまでは、展覧会の図録とSKIRAの版のもので見れますが、それ以外の本には入っていないようです。ルソーの絵も、一般の画集には入っていないものがたくさん含まれています。

定期試験や受験の前には、「いやだな~」と、こういう5mm程度の厚さの小さい画集を見ては、珈琲を飲んで「逃避行動」。そういうときには妙に「深いところに伝わってくるものがありました」。

いまでは画集の印刷レベルも比較にならないほどあがり、テレビのBSデジタルなどでも、鮮明な画質で絵やそのまわりの置かれている部屋の様子までが見ることが出来る。

一方で、はたして、自分が学生時代見ていた時に感じたものは、今でも克明に思い出せますが、今の自分はそれほど深く感動できるのか?

進歩したように、便利になったようでいて、失ってきた何かは小さくないのではないか?

自戒の意味を込めて、こういう画集をめくってみます。

たぶん、自転車に乗るときの、さまざまな感動も、同じように便利になるほど薄れるのではないか?

もっと良い画質で見たい、とか、もっと本物を見たい、とかさまざまな欲を現実に実現して変わってくるわけですが、最終的に、そうした「欲」は、なにかもっと純化された別の、高次元のものに昇華されないといけないのではないか?

欲がすべて、物質的なところで実現されたとき、多くの人は「目的喪失感」を感じて、そこですべての動きが停止してしまうのをかなり目撃してきました。

走り続けるほどに、自分のまわりの氷が融け落ちて、いよいよ身軽に、いよいよ自分自身の本質に迫れる、、、そういう具合でありたいと思います。

パブと自転車

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日野・多摩・八王子エリアに住むようになって、ずいぶん自転車生活は充実したと思います。川はある、丘はある、湧き水はある、古い神社・仏閣はある、海へ出るのもそう遠くない。

無人のスタンドで地元野菜を買う楽しみだけは、原発事故以降はなくなってしまいましたが、多摩に居をかまえたおかげで、ずいぶん自転車生活者としては救われたと思います。

そもそも多摩丘陵の風景と言うのはずいぶん英国のノースデヴォンやサマセットと似ている。あちらのほうがずっと手付かずの自然が残っていますが、よく似ていると思う。白洲次郎が柿生・鶴川のほうへ居をかまえたのも、私はそういう理由だろうと思っています。

私が中学生の頃は、よく多摩丘陵へサイクリングに来ていました。普通はそのまま多摩を抜け、津久井湖へ出て、中津川渓谷へ行ったり道志のほうへ行ったものですが、私はなぜか多摩丘陵のほうが好きでした。あちこちに当時は藁葺き屋根が残っていて、パターソンの絵の中の光景と重なったのです。

さて、そうして居を構え、「何か足りないもの、懐かしくなるものは?」と言われたら、私は「パブ」と答えるでしょう。

残念ながら、日本では自転車に乗るときは、お酒は飲酒運転になるので飲めません。

英国では酔わない常識的な範囲なら問題にならない。

英国にいたころは、同じ屋敷に住んでいる者たちどうしでも、食事のあとに、
「ちょっとパブへでもゆくか。」
と自転車で出かけていました。あれだけは懐かしく、また日本にいると物足りないことのひとつです。

パブへ行けば、誰か見知った人がいる。普段は自転車で10分ほどのところへ行きますが(ロードスターでと言うべきか?)、曜日によっては真っ暗な畑のなかの一本道を走って、20~30分かけて、隣の村のカントリー・パブへ行ったりする。そういうところは内装も古めかしく、音楽やジュークボックスなども一切なく、バーメイドも地元料理の名手だったりして、けっこうよいのです。

その暗い田舎道を、満天の星がめぐる下を車輪を回して走ってゆき、農家風の建築の灯りと看板を目指して自転車で走るのがたまらなくよいのです。

人のぬくもりの場所と冷たい星空とのコントラスト。

私は英国にいる時は、もっぱら古い戦前のロードスターに乗り、カムデンやエンジェルの古着市場で買った1930年代のハリス・ツイードを着て、古いリフト・アーム式のライターや、ヴィクトリア時代のヴェスタ・ケースなどを持ってカウンターへ行き、手巻きで煙草を吸っていたりしたので、「なんだかひと昔前の英国人みたいな変わった東洋人」という扱いだったようです。けっこうウケがよかった。
「その煙草、うちのおじいちゃんも同じのを手で巻いて吸ってたわ。」
などとずいぶんと言われました。パブで常連になると、帰りぎわに、バーメイドがキスまでしてくれる。
「日本へ帰っちまう前にもう一番ワシとチェスをやらないとイカンぞ。」
などと、腕をつかんで離さない「チェスがたき」の老人がいたりする。

そういう場所が東京ではみつけにくい。まずありません。

英国のパブの文化というのは、すばらしいな、と思います。その英国でもパブよりもバーのほうが人気が出てきているようです。ビールが好まれなくなったことにくわえて、やはり、そういうコミュ二ティが流行らないのかもしれません。

英国のパブのなかには「イン」という、宿が付いたものも少なくありません。なかにはそうしたインへかつての駅馬車が停まったなごりから、馬車が入れる中庭、コウチ・ヤードがあるところもあります。そういう中庭に良い自転車を持ち込んで入ってくる人もいます。

パターソンの絵には、そういう夜のパブと自転車の、何とも言えない懐かしい生活感の漂う絵があります。私が晩年、海外旅行なども高齢でかなわなくなったとき、日本でおそらく最も懐かしむのは、「自転車で行くパブ」だろうと思うのです。

貴族的節約主義

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英国の上流というと、かなりな贅沢をしていると思われるかもしれませんが、まじかに見ると、かなり手堅い、緻密な節約経済をしているのがわかります。

日本の昔ながらの生活を見てみると、これもまたかなり合理的に考えられ抜かれた節約の智慧がみえる。

本来、日本とか英国のような資源のない国は、そうやって生きてゆくよりほか、すべはないのです。

これはまったく意外なことなのですが、15世紀~17世紀ぐらいまでの英国の屋敷というのは、なかがものすごく明るい。これはもう、フランスやイタリア、ドイツの建築よりはるかに多く光を取り込めるようになっています。

とくに有名なのはオリエルという張り出し窓のたぐいで、この出っ張りのところにテーブルを置くと、日の短い秋や冬でもけっこう灯りいらずで有用なのです。

これが日本やアメリカのモダン建築だと昼間でも照明をつけないといけない建築がけっこうある。

かつての英国では「グレイト・チェンバー」と言って、おおきながらんどうの部屋があり、そこに暖炉のようなもの、「ハース」という囲炉裏のようなものがありました。暖かい空気が上へ昇るので、ベッドルームは上のほうにぶるさがるように建てた。そうしておけば、虫除け動物よけ外敵よけにもなる。

そういうわけでベッドルームは、いまだに普通1階にはつくりません。

そうして出来たがらんどうの家に、のちのち家を建てまして行き、なかに床を付けて2階建てにしたり、同じ建物を左右対称になるように建て、その2つを結ぶ部分を建て、1つの屋敷にしたりしていました。

こういう家は、じつはランニングコストがきわめて低い。普段は片方のウイングの最上階のベッドルームの暖房だけですますことも可能だからです。現代では、さらに暖房効率をあげるのに、そうした場所の窓を「魔法瓶」のような二重ガラスにしたりしています。

部屋で燃やす暖炉は、じつは2種類あります。日本ではあまり暖炉がポピュラーではないので、知られていませんが、暖炉には大きく分けて、木を燃やす暖炉と石炭を燃やす暖炉があるのです。

19世紀の新興成金の場合、圧倒的に石炭式暖炉が多い。昔からの屋敷なら木燃料暖炉が多い。これは庭の木の枝払いをしたものが暖炉で燃やせて経済的だから。どこで見分けるかと言うと、石炭式暖炉には石炭を入れる金属製のバスケットがあります。木燃料用のものは、dogという、木の幹を載せるペアの台がある。

そういう暖炉であれば、庭の敷地がある程度あれば、エネルギーの自給自足が可能でしょう。

私が住んでいた家にはキッチンストーブという料理もできれば、家を温めるストーブとしても機能するというスグレ物のAGAというものがありました。ガスも電子レンジもオール電化も、AGAさえあればいりません。グリルもオーブンも組み込まれている。キッチンはいつも暖かい。その上のベッドルームも暖かい。どういうルートで買っていたのかわかりませんが、1年間のコークスの使用料は2万円ほどだったと記憶しています。製鉄所などが買っているレートだと、2万円は2トンほどではなかったか?

あとは庭の木の枝を払って暖炉で使う。今、東京では灯油が一缶1500円以上うちのあたりではしますが、それを考えると、むこうはずいぶん大股に歩いて安く上げているな、と感心します。

野菜は庭で育てており、庭のはずれには、ラズベリーや林檎の木があって、ジャムは自家製。ニワトリは放し飼いされており、毎朝タマゴをひろう生活。パンも毎日住んでいる者がローテーションを組んで焼く。

もののみごとにエコでした。

家のさまざまな用をしていたフランシスは相場をみながら値段が下がると小麦と珈琲を袋で買っていました。珈琲豆は白いものを買う。珈琲豆には不思議と虫が付かず、フランシスは鉄の入れ物に生豆をいれて、AGAの中に入れ、ときおり揺する。最初は温度の低い右下のオーブンへ、それから温度の高いところへ。それで、なんとも美味い豆に焙煎できていたのが不思議です。

夜はキッチンか居間に集まって雑談したり。討論したり。各部屋へもどれば20Wぐらいのスタンドで読書。まあ、驚くほどみんなエネルギーを使っていませんでした。

朝ともなれば、みんな自転車で出かけて行きます。自動車を使っている人はいない。スクーターすらない。

私はいつもぼんやりと、ああいうやり方の延長で、壁に断熱材をいれ、屋根に太陽光発電をつけ、コンピューターなどの使用環境をととのえれば、それこそ環境負荷の小さいライフスタイルが可能なのではないか?とよく妄想したものです。日本でいつかそういう暮らしをしたいと思ってきましたが、どうも私の財布状態と世の中の景気から考えて難しいようです。

故井上重則さんの「いまどきの自転車」のなかの自転車屋から見た自動車という章の中に「元来、不要な場所の電灯が非常に気になるたちの人間です。仕事場でも家庭でも、電灯を消してまわって嫌がられています。原子力のことはよくわかりませんが、何となく孫たちにとてつもない借金を残しているような気がします。」という文章があったことを、ここ数日思い出していますが、ひとりひとりのエネルギー消費を減らしつつ、生活の質を落とさない工夫が必要なところに文明がさしかかっている気がしています。

けれども、英国の節約は決して「清貧」というようなストイックなものでもありません。毎日の夕食は必ずコースの体裁をとっていました。デザートはいつも庭の林檎を使ったものでしたが。そのあたりのやりかたと、日本の伝統的なやりかたのハイブリッドで、かなり質の高い世界に誇るべき「豊かで環境負荷のすくない生活スタイル」が構築できるはずだと私は思う。

その家は常夜灯や玄関灯などというものもつけません。真っ暗に夜はなる。ある時、オックスフォードのコレッジの所有するホールでのコンサートとレコーデイングの手伝いを済まして、帰りついたのは深夜でした。みんなを起こしては悪いと忍び足で家へ入りました。

階段を登る途中で、頭上から声が、
「誰っ?」
この家にもこんなに電球があったんだ、と思うほどの明るさ。家に住んでいるネグリジェ姿の若い女性軍がフライパンやらラケットやらで武装して立っていました。
「なあ~~~~んだ。R&Fなのね。今日は帰ってこないって聞いていたし、『リジーが階下に泥棒がいる』って騒ぐから、みんな起こして迎え撃とうと思ってたのよ。」
「頭を勝ち割られなくてよかった。レイチェル、アンタの持ってるのは鉄の鋳物のパンだろう。そんなんでやられたら死ぬよ。」

翌日は笑い話になりましたが、家の主人だけは神妙な顔で、
「う~ん。みんなを起こさないように、というその配慮に日本の奥深いこころづかいを感じる。わめきながら深夜帰ってくるラテンの連中は日本のやり方を見習ったほうが良い。」
と感心しきりでした。

まあ、電気を食わない防犯システムぐらいはあったほうがよいかもしれません。

ただ気分よく乗ることにて侯

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私の場合、自転車は気分よく乗るもの。人が何と言おうとかまいません。これはもう昔っからそうでして、「見栄のためにガマンして乗る」ということが出来ません。

この週末、話した人たちは、もう、人ぞしる自転車の道の大御所3人だったのですが、みなさん「世の中の最近の最新型は乗りにくくって冗談じゃないよね」と言うことでした。

私の時代、「サイクリング車の場合、ドロップハンドルの上とサドルの高さがほぼ同じになるように」と言われたものです。ロードだとドロップの上がちょっとサドルより低い。トラック・レーサーだとかなりハンドルが低い調整が普通でした。

ところが最近のロードは、昔のトラックレーサーと同じくらいハンドルが低い。

これはひとつには、ツール・ド・フランスの全長が短くなったということがあると思います。ファウスト・コッピの時代には総長が5000kmを越え、しかも泥やジャリの道が混じり、ほぼ6000km弱ありました。現代は3000km台なかばで、しかもすべて舗装路。自転車は極端な話、ワンステージもてばよい。もたなくってもサポートカーから代車を投げてもらえます。

たぶん、最新型のロードレーサーでサポートカーを禁止にして、道路の舗装をなくし、全長を昔に戻したら、最新型のロードに最新のポジションで乗ったら、今のレーサーは昔のレーサーに負けるのではないか?私はそういう気がします。現代のトラック・レーサーのようなポジションでビンデイング・ペダルで、6000km弱走れるとは思えないのです。

「強い前傾で地面見て走っていてもしょうがないよ。賞金くれる人がいるわけじゃないし。首あげてれば首がつかれるしさ。」
と大御所A。
「じつはアランを組んでたんだが、もう意図的に規格をかえて互換性をなくしているのが見え透いてて、ほんとうにどうしようもない。おまけに同じメーカーでも時代で互換性がなくなり、工具も変わるんだ。自転車の部品どうしの互換性をなくしたのは実に不愉快だね。それこそが自転車が使い捨てせず長く使える理由だったはずじゃない。それを自動車部品とおなじことをやろうとしているのが許せんね。不愉快きわまりない。」
と大御所B。
「どれもこの頃の自転車は乗りにくくってさ。カッコだけはそれらしいけど。身体はごまかせないからね。」
と大御所C。

なにせ、ある高名なインプレライダーが、「こっちのほうがトルクのかかり方がスムーズで気持ちが良い」と、プライベートでは、わざわざ古い7段とか8段のロード部品をひっぱりだしてつけていたりするんです。

私が困るのは、私が上野ぐらいまでは多摩・八王子界隈から日常的に乗ってゆく、と言っても特別のことに言う普通の人が多いことです。しかし、それは自転車がよくないから難しいので、よい自転車なら簡単なはなしです。

そこまで言って、ではどういうのが良い自転車なのか?というと、その説明にはたいへんな量の説明が必要になります。ここがむずかしいところです。

最高のグレードの部品を使うと良くなるか?というとそんなことはありません。レースではエースを援護して走る人々のことを「アシスト」と言いますが、ヨーロッパのアシストの多くはケンタウルを使っています。エースなどはレコードやスーパーレコードを使う。
「シフテイング・パフォーマンスは同じだ。耐久性も高い。重量はちょっと重いがたいした差はでない。なぜ日本では最高級グレードのもののみに目が行くのか?」
と双輪皇帝はいぶかしがっていました。むしろそこそこのグレードのものをガンガン使い切ってしまうと、逆にそのもののもつ底光りするものが見えてきます。私は中級グレードのカンパを徹底的に使うのが好き。

毎日のように使っていても調子が崩れてこない部品を私は好みます。

そして自転車の総体としての設計がすぐれているもの。

その全体のバランスに向けてすべての細部が決定されているもの。

そういうものは、なんとも言えずよい。

たとえば、クランクの剛性があがると、こんどはスチールフレームのしなう量が大きくなります。クランクがしなえば、フレームはそれほどしなわなくなる。フレームがしなうということは、変速のフィーリングに影響が出て、また、前後車輪のトラッキングラインがずれて、ころがり抵抗が増えることもあります。

そうかといって、クランクとフレームを固めれば、膝や身体に来る。「剛性が何パーセントあがった」とカタログや雑誌がもちあげれば、「それは身体にきそうだな」と私ならBad newsとしてとらえます。レースで勝つためには、多少身体に来ても関係ないのでしょうが、「気分よく乗る」ためには必ずしも必要ではないことです。

これはウチへきたひとには良く話すのですが、スチール・クランクでも、カンパニョーロの3アームのスチールはものすごく固い。しかも小さいリングがはいらないので、膝の具合がよくないひとがあれに「スチールフレームと合うかも知れない」と考えるととんでもないことになります。

数ヶ月前、私のところに28号写しが欲しいといってきた人がいましたが、カンパニョーロのスチールの3アームを入れて欲しい、と言ってきまして、「あ~、うちでは絶対にそういうことはやりませんね」と言って断ったら驚かれました。このところ、雑誌にあのクランクを付けたスチールフレームの車輌が出たりするので、興味を持つ人も多いのかもしれませんが、カンパ党の私が唯一決して使用しないカンパのクランク、持っているものはすべて処分したクランクでもあります。

「高価な部品のクリスマス・ツリー」は気分の上でも思いっきり使い倒せないものです。

変速器などでも、じつはのんびりと気晴らしに乗るサイクリングなら、まったりとした古い鉄の変速器などもよいものなのです。私は古い鉄のサンツアーを使っています。変速器からチェンがワンタッチでとれるので、輪行のときすごく便利です。先日、あるショップへ行ったところ、30歳ぐらいの店員が興味津々で、ちょっと変速しても良いですか?ときいてきて、さかんにいじっていました。彼の生まれる前の未使用新品。「いや、これいいですね。すごく変速いい感じです。」と感心していました。安物ですが決して悪いものではありません。信頼性も高い。使い勝手はグレードや値段ではありません。スキッターなど上手く買えば自転車店の棚の隅に2000円ぐらいでころがっています。超高価な変速器を30%ぐらいのポテンシャルで使うより、そうした良心的に作られたものを90%使いきるほうが楽しいことも多いのです。

そう言いつつ、自分の「決戦用」はオールカンパにしたりします(笑)。この矛盾。どちらもよいのです。

先週、どうしても大阪で試乗したうちの自転車の乗り味が忘れられず、わざわざ飛行機でいらした方がおりました。その方、オーディオのほうも詳しいということなのですが、
「いや、部品構成はこれをそのままお手本にしたいですね。オーディオでも下手に入れ替えるとバランスが崩れて、かえって悪くなったりするんです。」
これは、なかなか良い一言だなと思いました。まさにフレームとクランクの強度のバランスなどもそういう具合なのです。

シクロの変速器、合わせてみたら、フロントアウター44Tでこのぐらい。これはアウター42Tとか40Tでピッタリなようです。ツーリストとしては、坂道の手前にきたら、悠然と降りてインナーに落としてもいいな、と思うぐらいです。驚くほどコンパクトな変速器です。見た目も味わい深い。

「ただ気分よく乗ることにて侯。」
これほど簡単なひとことで、奥が深いことはないように思えます。「勝つためにストレスなし」は私には無意味。レースに出て勝とうとは思わないので。自然を友として生き、気持ちよく自転車に乗りたい。

あ~~、今週も週の初めから過激ですね(笑)。

人に淹れてもらう珈琲

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私は珈琲も紅茶もひととおり自分で淹れられます。珈琲も幸いにして、名人に教わったことがあり、紅茶も英国とインドで勉強した関係でけっこう気にするほうです。

一部の人はご存知ですが、日本で英国人が集まる会員制のあるところで、午後の紅茶と夜の酒を出すところの運営をやっていたこともありました。ですので、中身を入れ替えてキャップをかしめてチョロまかしたスコッチだとか、内部洗浄の行き届いていないビア・エンジンでいれたドラフト・ビール、まがいもの紅茶などには私はごまかされません。

しかし、やはり、ホッとしたいときには、自分で淹れる気力がない。納得できる珈琲、紅茶、酒がでてくる場所があるのは、なによりの幸せです。

幸い、うちのまわりにはそういう店が5軒あるのでたいへんたすかる。疲れるとその4件のうちのいずれかに行きます。家の近くに1軒。1軒は府中街道のそば、1軒は副業で珈琲を出し、もうひとつは食事のついでに寄ります。あと一軒洒落た木造の店があるのですが、そこは珈琲の味が安定していません。美味いときもあるし、なんだかな、という時もある。誰がその時店のカウンターのなかにいるかによる。あとはよく行くケーキ屋さんの珈琲がたいへん本格です。

珈琲・紅茶が飲んだ気がするかどうかというのは、これは面白い。なんだか飲んだ瞬間「幻滅する珈琲・紅茶」と言うのも少なくありません。1に味。食器と店の落ち着きというものもあります。しかし、インテリアは店主の好みもあるので、こればかりは無理。食器が嫌な感じのものはどうにもガマンできません。

そのよく行く店のカップはじつにサイズがよい。絵付けがイングリッシュ・デルフトのようなので、これは日本のものではないな、と思ってたずねたところ、デンマークのカップで、ほとんど割れてしまって、もう3個しか生き残っていないと言われました。

行くといつもそれで出てくるのがうれしい。私は最近のカップのサイズがあまりしっくりこない気がします。家で使ってる珈琲カップ、紅茶カップ、マグカップは自動的にすべてヨーロッパのものになってしまっています。あと、しゃれたつもりで「しなを作ったような、ナヨナヨした日本のカップ」も好きになれません。いつも使っていると「しなをつけている曲線がイライラしてくる」のです。これは無地の白いカップであってもダメです。業務用でもダメ。

食事の時に寄る店のカップは、濃紺に緻密な絵が描かれているのですが、それがちっともうるさくない。形状もものすごくシンプル。日本のかなり高級な特注品をリサイクルショップで400円で買ったらしいですが、まったく嫌味がなく、とても値段には見えない。

そうそう、6軒目がありました。そこも珈琲をドリップでいれてくれるのですが、淹れてくれる人が5人いて、週の曜日と午前午後で違います。淹れるのがうまい人が二人いる。面白いもので、その淹れるのがうまい二人に当ると、いつもなぜかウエッジウッドのサムライかハンテイング・シーンのカップでもってきてくれます。私はその2種類のカップのサイズも好きです。ところが淹れるのが不味い人は「しなをつくったカップで出してくれる」。これは入れ物のせいばかりではなく、味もシッカリ違います。

伝わらないのかな、というか、これは言ってカップを指定しても、やっぱり味が違うんだろうな、と思ってあきらめています。

勝ち負けメンタリティと鞍馬天狗

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いつの頃からか、日本語に加わったことばに「勝ち組」と「負け組」というのがあります。これは興味深い現象で、たぶん、1990年代はじめぐらいから耳にするようになりました。

私の青年時代にはなかった言葉です。これは勝ち組という言葉で「くくってしまうメンタリティ」そのものに問題があると思うのです。

これは「おごる平家の花盛り」で、「今、暫定的に勝っていて、やがては滅亡する」運命かもしれないからです。「勝ち組」という考えのなかにきわめて刹那的なものがある。逆に「負け組」に正義があれば、それが強烈に押し返して、勝ち組を海へ落とすこともできるはずです。ところが、日本ではなかなかそういうことが起こらない。

ヨーロッパでは、この感覚が強いからこそフランスで革命があったり、常に定期的に社会が自浄作用をもっているように見えます。1980年代の英国にいて、その仕事のない人たちなどの行動を見ていると、昔だったらこれが内乱や革命に繋がったのだろうな、と思ったものです。

ところが日本では、幕末が唯一の例ではなかったのか。これは社会を変えようとするすべての面において言える気がします。

じつは昨日、野村萬斎の鞍馬天狗をDVDで見ていたのですが、彼が都から離れた山で暮らしていたのが都へ降りてきて、そこで見聞きしたことによって「天狗」になってゆく。じつは原作者の大仏次郎は鞍馬天狗を最後はフランスへ渡らせる計画案も持っていたと言います。彼が幕末の持っていたエネルギーとフランス革命のエネルギーを同質のものと見ていたことは間違いありません。

ちょっと興味深く思って、野村萬斎版の鞍馬天狗の視聴率をネットで調べてみました。だいたい10%台前半。いままで、鞍馬天狗は定期的に作られ、大ヒットを重ねてきたわけですが、今回はさしてヒットしませんでした。これは、私は現代日本人を考察する良い資料ではないかと思います。

最近の若い親への調査で、自分のこどもにどういう風に育って欲しいか?というアンケートで、「他人に迷惑をかけない」というのが強烈に多かったというニュースを読みました。それでは鞍馬天狗などが流行るわけはありません。「一命にかえてもこの世の中を良くする」という思想の真逆にあるといってよい。

前に「世界に誇るべき日本人」のところで天真正伝香取神道流の大竹利典師範のことを書きましたが、彼がかつて「武士道の究極は一語につきる、それは忘己利他の自己犠牲の精神だ。自分ひとりがここで倒れても、それによって家族や友人、あるいは次の世代が助かれば、、、ということです。」そう語りつつ、それを仏教の「はらみっの行」になぞらえていました。

先日、ブータンの国王夫妻が来日して、強烈な好印象を残して帰国されましたが、ニュースの関連画像で、国王就任のときのスピーチに私は感動しました。「命ある限り、国民の幸福のために、私の全人生を捧げます」というものでした。徹底した忘己利他の仏教思想でしょう。これは武士道精神ともきわめて近い。果たして今の日本の政治家などで、ここまで言い切れ、実践している人が何人いるのか?

鞍馬天狗は新撰組や幕府に勝つのか?これは絶対に勝たないのです。また勝ったところで忘己利他を信条とする者に、その勝った権力で良い地位に納まるということもありません。個別の一対一の勝負では人間とは思えない技の鞍馬天狗も、決して日本と言う深い組織は崩せないのです。少数の支持者はあっても、多勢がそれに合流するということがこの国ではないので。

それでは意味が無いのか?といえば、そういうことはありません。結局は幕府は倒れ、世の中は変わって行きます。原作では明治時代になって、茶屋で休んでいると、むこうに一瞬幕末の有名な武士の生き残りを発見する海野と名前を変えた天狗の話があります。

「勝ち組にしがみつく」ことで、世の中で、あるいは自分の中に、何を残すのか?これこそが、現代日本人が忘れた心の奥底の声だろうな、と思うのです。

人脈

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かつて、あるモーターサイクルの雑誌の編集長と話したことがあるのですが、古い自転車をレストアするというのは、なかなか一人でできるものではありません。

「ここをこうすれば治る」
とわかっていても、それはやはり少しでも自分より腕の良い人にやってもらいたい。そうするとフレームの修理、そのほかの部品の製作、機械加工、めっきなどのもろもろを人に頼むことになります。

これがたいへん難しい部分でして、頼みに行ってやってもらえないこともあります。やってもらえても、考えていたのとずいぶん違っていたようにあがることもあります。

ある「人の眼を見て話せない、うつむいて眼をそらして話すビルダーさん」に戦前のフレームの芯だしを頼んだときのことです。却ってきたとき、目視でバックフォークがおかしい具合になっているのがわかりました。芯だしを頼む前にはなかった深い凹みがバックフォークに出来ていました。そこでシートステーが「S字」になっていた。

いや、これにはちょっとショックを受けました。そういう仕事をして客が気がつかないと思ったのでしょうか。仕方が無いのでシートステーに合ったバイスを彫り削ってつくって、それで挟んで圧力をかけ、ある程度のところまで戻し、最後の表面ならしと芯だしはほかのビルダーさんにお願いしました。それなら最初からそこへ持ち込めばよかったというところです。

そのときは、古い自転車に対する経験値の問題かな、とあくまでも好意的に解釈していたのですが、仕事を頼んだ時に、関西から送られてきたフレームもやったことがあるから大丈夫ですと言っていました。大失敗でした。

その後、ロウ付けがとれたフレームがその人からきたことがあり、「あ~、仕事にムラがあるな、これは考えないといけないな」と思っていた矢先、ボトムブラケット下でロウ切れしていて、かつタイヤがフレームに擦って回転しないフレームを持ってきたので取引終了。

別の名匠は通常のフレームでもウエィティング・リスト20年というので有名です(私は頼んだことはありません。故井上重則さんがRHの芯出しを頼んで、6年待って最終的に自分でやったことがありました)。そうなると、無理を頼める腕の良い人を私は一人しかあとは知りません。親方が倒れてからあと、そういう具合でしたので、もう古い自転車のレストアはすこし控えてゆこうと思ったのでした。

「ボクが出来るうちにどんどん持って来てやっておいたほうがいいですよ。」
と親方に言われましたが、まさにそうでした。「鉄のことなら、どんなことでもなんとかなる」と豪語していただけのことはありました。一度2人がかりで、刀鍛冶のように、トーチであぶって赤く焼いて、別の鉄片と合わせてくっつけて部品を作ったこともありました。

こういうことは「これを治せば面白い」とその人が考え、かつ並外れた技術がないとできません。

機械加工のほうも長年、「Q」と呼んでいたかつての精密機械の会社で同じ会社にいた、引退した職人さんとその仲間との二人にもう25年ほど前から頼んでいました。一人が脳溢血で6年ほど前に倒れ、もう一人も体調を崩し、最近は思うように出来なくなっていました。別のところへ単発でだしていたのですが、やはりツーカーでわかる人とわからない人といる。最近は若手の自転車が好きな人に頼んでいるので、若返りができました。

ただ、ビルダーだけは、みなさん高齢化しています。あと5年後はわからない。8年後は多分ダメかもしれません。なにしろ、ホイール組みですら、わたしもそろそろ老眼が入ってきて、うっとうしくて正確に出来なくなってきています。夜などフレ取りはじつにやりにくい。これも最近は目の若い若手にまかせることが多くなってきました。

あとは、ちょっとした部品の供給もないと自転車は組めなかったり仕上げられなかったりします。そちらのほうもまた人のつながり。その枝葉は海外にまで伸ばさないとうまくゆきません。たぶん、自転車ほど人脈を必要とする工業製品はほかにあまりないのではないか?と言う気がします。

今作っている自転車も考えてみると古い車両のレストアと同じで、やはり人脈からは切り離せません。そうすると自転車というのは、その時のネットワークの具合でかなり有機的にできているものと言えるかもしれません。

西風の翁が言っていた「自転車は一代がほんもの」というのをしみじみと思いだします。ウチホさんやタケイさんとやりはじめた翁でしたが、「オレの性分として溶接は最高の人がやらなきゃ嫌なんだ」とよく言っていました。私はウチホさんの作った自転車に乗せてもらったことがありますが、くせのない、「じつにぬけのよい、よく走るフレームでした。

クロモリ・スチール・フレームの楽屋話

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これはぜひとも雑誌を買って読んでいるひとたちにも、これを読んでいる自転車業界の人たちにも考えてもらいたいことがらなのです。

このあいだの大坂のサイクル・モード・ショーの前に、大坂のほうのフレームの塗装屋さんの昔からの仲良しの方に、そこでしか出せないやりかたの色などをやってもらうのに、東京から生地のフレームを送る話をちょっとしていました。

そのとき、出た話ですが、「最近の自転車雑誌は書いてはいけないことを書いてますな」という話でした。「たとえば?」と私が訊くと、
「この塗装屋さんの名前と住所なんかでもそうです。おかげで、FAX以外では、私も、もう何十年もおつきあいさせてもろうとるのに、つかまりませんのです。えらい迷惑してはる方たちたくさんおるんやないですか。」
まさにそうです。雑誌に露出したおかげで、業者との関係にも影響がでています。

その大阪の塗装屋さん、製作者側の人たちはみんな知っていますが、あのヲタク雑誌NCですら、長年工場内部だの場所だのを教えたことはありませんでした。これは、ある有名な手品師が、テレビで次々と視聴率稼ぎのためにネタをばらし、手品界で総スカンを食っていた時期があったのと似ています。

その延長線上で、最近はフレームの作り方などをことこまかに解説しています。そんなことは書籍が教えるべき話ではない。徒弟に入って学ぶべきことです。また、それを教えるほうも教えるほうです。

しばらく前に、親方の息子がフレームの作り方を見せているのを雑誌で見て、ダイコン印の選手だったうちへ出入りしている仲間がビックリして電話をしてきました。
「なんであんなことを雑誌で公開して教えちゃうんでしょうね。結局、自分が苦労してゼロから考えたんじゃないからでしょうね。治具ひとつとっても、手順でも、親爺が苦労惨憺して、試行錯誤して考え出したんでしょうに。先人の苦労に尊敬を払えないんじゃないでしょうか。」

実際、私は親方が定盤が買えず、最初の頃は精度の高い、ぶ厚いショーウインドー用のガラスを定盤にして、フレームの芯出しをしていたのを知っています。

もう故人となりましたが、あるときに、オーストラリアの自転車研究者のロン・シェパードから日本の変速器に関する問い合わせをうけました。それから、メルボルンやシドニーで何度か会ったのですが、私が驚いたのは、ロンがNCの英語翻訳版を持っていたことでした。
「これは驚いた、専門の翻訳会社に頼んだのか?」
と言ったら、必要なところだけ、大学生に頼んだのだ、と言います。オーストラリアには日本語が上手な人がたくさんいます。

これは重要なことでして、当然、親方の息子や、かつて親方のところでフレームの作り方を教えてもらって、のちに独立したオーディオ屋さんの記事なども、アジア諸国の業界人は翻訳して読んでいると考えるべきです。つまりそういう出版社は、一部のラジコン編集部とかミニチュアカー編集部から自転車編集部へ成り上がった編集部員が、売り上げを伸ばし、社内でのし上がり、高級ホテルのホールかどこかでの年末貸しきりパーティーで褒められたいとか、そういう理由で業界の秘密を雑誌に登場させているわけです。

これは製造業の人たちはもっと怒ったほうが良いのではないか?

はるかイタリアの双輪皇帝は、日本で出たすべての自転車関係の本を見ています。もっと近いアジアの国々の業界人が見ていないはずがないのです。

雑誌で教えているある工房では、数年前までガテンで時給800数十円で求人した入って数ヶ月のアルバイトに溶接させたり、チェンステーを潰させていました(その時給の求人広告は見たひとも多いので、ここで書いてもさしつかえないでしょう)。同じように、お隣のアジア諸国で、雑誌の翻訳記事をお手本にして、安い労働力を使って、工場で教育し、ハンドビルトのフレームのロードレーサーに台湾部品を付けて、完成車2万3千円とかやられたらどうするのか?

あるいは、そこで読んだ内容を「発注屋」が外国の工場に説明して教えることもあるでしょう。

技術というのはほんの一瞬で漏れるのです。背景に写っている治具ひとつ、工具ひとつが決定的な追いつくヒントになる。私自身、もしマリオ・ロッシンの工具を見る機会がなかったら、うちの二本トップチューブのフレームを作る道筋はたちませんでした。

こういう自分のことしか考えていない連中が、この国を空洞化させるので、腹立たしい限りです。「編集者」がフレームなど作っても何の意味もありません。「編集者」というのは、他人の書いたものを「編集して、書籍の体裁にするのが仕事」のはずです。自分の仕事に専念し、もっとこの国の産業や雇用、自分たちの次の世代の仕事のことをまともに考えてやれ、と私は言いたい。

たとえばこんな話はいかがでしょう。

かつて、きわめて良心的なMEN’S総合雑誌がありまして、そこの編集長が、ある時、私の自転車方面での原稿料のことを訊ねてきました。
「う~ん。振込みは2万円とか、6万円とか、本一冊、物を貸して撮影させ、記事まで書いても20万円いくことは、まずほとんどないね。」
「え~~~~っ。それなら一冊自分で出しちゃいなよ。ざっくり言って、あのくらいのMOOK本は400万円からせいぜい600万円で作れるよ。2万部売れれば三千万円でしょ。裏表紙とか広告料100万円とか180万円でしょ。そこへ加算して行けば、すぐ印刷と製本代は出ちゃうよ。一冊も売れなくても広告料でただで出せるんだよ。そりゃ自分でやったほうがいいよ。」
まあ、こういう話の自転車製造技術版を書いているに等しいわけです。

今日はある東北の酒造メーカーの海外販売戦略を手伝っているヨーロッパの人と昼飯を食べていました。彼が言った今日の名言、
「日本はもっと製造とか、いろいろなことを秘密にしたほうがいい。外部からはどうやって、そういう製品が生まれ出てくるのか、まったく謎のままにしておいたほうが、この国の製造業が長く続くと思う」
と言っていました。私は正論だと思う。

「そういう人脈で、集まって、グループを作る。『メンバーは誰もいません』とかウソ言って。」
「あ~、そういう秘密商工会議いいね~。」
昼食時に大笑いしていました。

よくぞ生き残っていました

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部品を仕分けつつ、使う部品をまとめていました。あるところへ必要な部品をピックアップに行ったところ、「あっ!大きいクワガタが、、、。」すごい初期のアジャスター付きのスキッターでした。これはネジ一本でアームの長さを変えて変速器のキャパシティーを変えられるすぐれものなのです。

「クリスマス近いしな、自分用にしよう。」

このところ自分の自転車にかかわる時間が減っているので、これは自分への勤労感謝。

そうこうするうちに、古い国産のフロント変速器発見。私が中学1年のとき、中古のサイクリング車を安く手に入れた友人がいて、彼の自転車にはフロント・トリプルで、この変速器が付いていました。インナーギアは32Tぐらいが付いていて、いかにも中古車じみたヤレた感じでしたが、多くの少年たちがあこがれていました。つまり、少年たちは多少汚くても、坂道を登るのに有利な「遊び道具」を高く評価していたのです。

「う~ん。自分の少年時代欲しかった変速器が新品未使用であるとは、これは自分へのご褒美にしよう。」

この変速器、じつによいのです。アウター・ギア44Tでも42Tでも、羽の角度が変えられるので問題が出ません。まさにオヤジ・ツーリストのために作られたようなもの。まあ、二つ買っても数千円でマンの桁いきませんから安いご褒美です。ただし滅多に見かけないので、私にはプライスレス。

こうして並べてみてみると、変速器はほんとうに「複雑に」、「大きく」、「おおげさ」になってきたように思えます。こういう道具はもっとシンプルで良いのではないか。

自分にとってはこれらはすべて「道具」なので、こういう古いものでも「使い手の道具の扱いでまったく問題なく使えます」。ある人は「トルクレンチが必要だ」と言い、別の人は「普通のスパナと手の感触でまったく不自由はない」と思う。

この2つの変速器、それと私が通学に使っていた変速器には「デザインが入っていない」ので、きわめて機能的で無駄がない形状に思えます。毎日見ていても嫌味が感じられない。

私はこういう道具こそが priceless で timeless に思えるのです。こういう道具は安いので珈琲を飲みに店に入っていても、自転車を盗まれる心配がない。しかもきわめて質実剛健で、こちらの信頼をうらぎらない。こういうマニア的な考えに真っ向からさからった自転車の楽しみというのは、これはまた別種の深い楽しみがあるものです。

設計の良い、ポジションがよく出たオーダーのスチールフレームの自転車に、こういうマニアの振り向かない安くて信頼性のある部品をつけて実用的に毎日のように乗るのも、またオツなものだと思うのです。

自分用はカンパとベネルックスとこのスライド、及びヘリコイド式で、これから死ぬまで楽しめると思います。私はこの道具を問題なく使いこなせるので、私にとって最新型もこれらも性能はたいして問題になりません。逆にそうした人間の取り扱いの技術が介入する道具のほうが、使っていて愛着がわくように思います。

そうは言いつつ、この羽を参考にしつつ、フロント・アウター42Tとか44Tで調子が良い、中高年、女性用の変速器の替え羽をつくろうと考えています。自分の知りえたことはなんらかの形で次世代に還元して、この国の自転車の泉の水が減ることのないようにしたいと思っています。

一台として同じものはない

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かつて、少年時代、西風の翁のところで自転車に乗せてもらったときのことです。サイズはバッチリ合っていました。また、その乗り味たるや、なんとも言えず良かったのでした。

のちにその自転車と同じものをオーダーしに行き、こことあそこと変えて、部品はこれに、、、と言ったところ、翁はコトリと鉛筆を置き、
「それは、キミ、まだまだわかっていないな。これをくれ、これと同じものを、というのがほんとうじゃないかな。これが乗りよかったんだろう?もっと言えば、、、(とぶらさがっているルネを指差して)これが欲しい、これを売ってください、と言うようになったら、もっと本当にわかっているかもしれない。」

オーダーの店で奇妙なことを言うものだな、それじゃオーダーじゃないじゃないかと少年の私は思いました。

「このルネは、かなりよく出来てる。サンプルとして頼んだものだから、かなり気合をいれて作ったんだろう。◎×君のはどうもそれほどよくないようだ。うちも、このつぎもし頼んだとして、これと同じぐらいにあがるかどうかわからないよ。ルネはどうも出来にむらがあるようだな。」

同じようなことは親方も言っていました。
「R&Fさん。こうやって数作っていると、『これはよくできたな~』と自分でハッキリわかるもんですよ。」
「それは丹精こめて、会心の作と言う意味?」
「そうじゃない。みんな、531で作ってブレーキ・ケーブルも変速ワイヤーも内蔵にして、チェンレスト付けて、電気のコードもなか通して、ナベラグのへりを薄く削って、ラメのブルーかなんか塗って『あ~良いのが出来た』と思うでしょう?違うんですよ。そんなのにかぎってダメなんだ。」
「アハハ、そりゃ問題発言だね。」
「フレームの溶接なんていうのはさ、『スルメをあぶっていると思ったらわかりやすい』。もうパイプの片側を火で焙って真っ赤にしていれば、うにょうにょ動くわけじゃない。もう5mm以上も動きますよ。なんたって穴を開けて、そのまわりに板貼って厚くしてるんだから、冷えると、今度は内蔵ケーブルのフタが絆創膏みたいになってつつぱってると考えたらいいんですよ。だから、特殊工作が多いほど良いフレームだなんてとんでもない、勘違いもいいとこ。」
「そういうので、良いのはない?」
「たいがいそういうのはよくないね。やってるはしから『ああ、こりゃダメだな』とか思うののあるからね。まあ、なんとかそれらしくしてるんじゃないかな。ビルダーの仕事というよりは歯医者の仕事みたいなのがあるよ。何十本もまとめてつくったスタンダードなラグレスなんかのなかの一台で、『ああ、これはものすごくよく出来たな』としばらく手許において眺めているようなのもありますよ。お客はそんなことは知らないだろうけど。」

同じことはツール・ド・フランスのチャンピオン、ジャック・アンクティルも言っています。
「競技中に自転車を交換するより、できれば、短時間で修理できるなら、同じ車輌に乗るほうが良い。まったく同じ寸法、まったく同じ材料と部品で組んでも、一方が必ず他方より乗り良いからだ。」

こういうふうに考えてくると、「よいフレーム」とか「よい自転車」ということは、なかなか、雑誌などで一般に言われている凝った具合ではないことがわかってきます。

さりげなく、くせがなく、澄んだ感じの乗り味というのは、これはじつに重要な基準です。それが達成されていれば、特殊工作など私はいりません。

シマノ私観1

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若い世代と私の世代では、たぶん、ずいぶんシマノに対する考え方が違うと思います。私は1960年代のシマノからリアルタイムで知っているわけで、つまり、シマノがまともに動かないアーチェリーという、どこかの宗教団体の娘のような名前の変速器を作っていた時から知っているわけです。

このシマノのアーチェリーと言うのはまったくひどい変速器で、すぐに動かなくなったものです。かなり安普請のパラレログラムで、メッキも悪いのと、カシメなどのその構造上、すぐに固まってまったく動かなくなって困ったものです。

そのころ、けっこう安心して使える変速器というと三光舎の変速器とかDNBとかのもの、あとはサンツアーでした。この国産の3社からするとそうとうシマノは劣っていました。ですので、当時の本格スポーツ車でシマノのディレイラーをつけている車輌を私は見た記憶がありません。「ウソだ!」というお疑いのシマノファンはご自身で、当時のシマノ・アーチェリーとサンツアー・スキッターや三光舎のPFを、5段フリーの自転車に付けて使い較べてみるとよいかと思います。

当時は、アーチェリーを付けた婦人車などで、変速できなくなって打ち捨てられているものをよくみかけました。その頃、高級なマスプロ・スポーツ車には、ユーレー・ズベルトをつけているものもけっこうありました。

小学校6年のころ、私は世田谷の自宅から中津川渓谷や五日市・奥多摩のほうへサイクリングに行っていたので、ローが大きめのフリーが欲しいと思って、自転車屋さんで入れ替えてもらったことがあります。それは流行り始めた「ワイド・レシオ」のフリーでシマノ製でしたが、一回サイクリングに行くと音がしなくなりました。

自転車屋さんにそういうと、三光舎のフリーを出してきてくれまして、そのパチパチ言う音にしびれたものです。

その当時、ちょうど三光舎が消滅したばかりだったのですが、プロキオンという三光舎のレース用変速器への期待があっただけにたいへん残念でした。その時代、シマノの変速器はレース用のものはなく、ツーリング用でもサンツアーより評判は下でした。そのプロキオンは日本最初のアルミ製パラレログラム式レース用変速器。世界最初のブラック・アドナイズド・アルミ合金ボデイ、世界最初の対角線にコイル・スプリングをリターン・スプリングはったパラレログラム、しかもダブル・スプリング・テンション・システム。これにサンツアーの特許だったスラント・パンタ・システムを入れれば、ほぼ世界を席巻したデュラ・エースの主要な特徴そのままになります。

では、そのとき、シマノのイメージは?というと「内装ハブのシマノ」だったのです。シマノの内装ハブはトグルチェーンを使わない構造で、ユニークだと思ったものですが、後年アメリカで「ベンディックス」というメーカーがまったく同じ構造の内装ハブを作っていたのを発見して、シマノ・オリジナル説には私の中では疑問符がついています。ベンデイックスはアメリカの第二次世界大戦中、B29の航空機用の人工水平付きバブル・セクスタントを製作していたほどの精密機器メーカーですから、日本製をあそこがコピーするのは、あまり考えられない気がします。しかし、決定的な証拠がないので、最終的な意見は保留します。

1970年代に入ると、アメリカで排気ガス規制が強まり、マスキー議員の「マスキー法」などがとりざたされ、アメリカで自転車ブームが起こりました。国内にたいした自転車メーカーや部品メーカーもなかったので、ここでアメリカは大量に自転車や自転車部品を、日本やヨーロッパから輸入したのでした。

そのころのカンパは大量生産で一時期「作が荒れた」と言われていました。カンパのハブには球押しのところに製造年代が刻印されており、日本のものにはそういうことはありませんでした。これは変速器でもヌーヴォ・レコードなどには製造年月日が刻印されています。当時のサンツアーとかシマノはそういうことは決してやっていませんでした。

それが逆に、マニアの間で、カンパの製品が、外見はまったく同じなのに、1960年代のものと1970年代のもので価格が違うというようなめんどうなことをひき起こしているようです。

しかし、最近ウイキペディアを読むと、よほどシマノを持ち上げカンパを貶めたい連中が書いているのか、「カンパは高級ブランド路線の製品作りで、日本では最高級のものとコーラスぐらいしか売れていない」とか、カンパはもともと「金物屋だった」などと書いてあります。しかし、1960年代から、ハブのコーンのロックナットの当たり面にまで製造年を刻印していたのがカンパニョーロであって、アーチェリーと内装ハブのシマノとは、もうそのスタート時点から決定的な差があったと私は考えています。

カンパニョーロの創設者トウリョ・カンパニョーロは「少年レーサー」、「青年レーサー」を経て、自ら最高の部品をつくることを目指した情熱的理想家で、「金物屋」でもなければ、「企業家」や「ブランド路線で金儲けを目指した人物でもありません」。一方、シマノの歴代の社長が競技選手であったことは寡聞にして聞きません。カンパニョーロの創業者を「金物屋」と言うレッテルで片付けようとするのは執筆者のかなりの「悪意」を私は感じます。

話を元に戻すと、アメリカのバイコロジー・ブームでシマノはおおいに潤ったのでした。その金をつぎ込んでなんとか外装変速器のよいものを作り始めようと考えたのでした。

その当時、サンツアーのアルミの変速器、サンツアーVのアルミの材質は粗悪で(一説にアメリカから買っていた再生アルミだとの説もある)、よく折れたのです。一方でコンペテンションは根元が鋳物製だったので、自転車を転倒させたりミスシフトするとそこから折れることがありました。私はサンツアーコンペテンションを使っていました。それはサンツアーVが折れるのを予防するために、どんどん雪だるまのようにムクムクと肥満児化していたのにガマンならなかったからです。今では「神格化」されているサンツアーですが、それが当時の客観的な様子だったと思います。

その時、ひとつ重要な複線は、シマノは当時、宮田をはじめとするメーカーへ、ジュニア・スポーツ車用の安物変速器を供給しており、それはシマノにとってかなり大きな比重を占めていたと思います。変速レバーはトップチューブに取り付けられ、そこには、今何段に入っているかを示す「数字が書いてありました」。つまりインデックスのはしりです。

この数字が変速レバーに書いてあるというのは、シマノの独創ではなく、じつはフランスのサンプレックスも英国のサイクロもやっている。またリアの変速器に2つのスプリングを仕込み、変速器のジョッキープーリーとフリーのコグとの間を常に一定に保つダブル・スプリング・テンション・システムもフランスのサンプレックスが最初に特許を取っています。日本でそのサンプレックスのシステムを最初にやったのは、サンプレックスと提携していた消滅した三光舎でした。

私はかつて、ある自転車博物館のN氏と自転車の変速器の歴史研究家のフランク・ベルトに、自転車の歴史学会で、「シマノのダブル・スプリング・テンション・システムとサンプレックスのダブル・スプリング・テンション・システムは私は基本同じものだと思うが、両者がまったく違うものだと主張する君の根拠を示せ」と公開の場で発言して、場内の他の自転車歴史家たちは爆笑しました。困ったフランクは「時間がないので、あとで個人的に答える」と言いましたが、故ジョン・ピンカートンとトニー・ハドランドから「時間はいくらでもあるぞ」というヤジがとびました。

その後、何度か催促をしましたが回答がこないので、同じものだと考えてよいのでしょう。

しかし、そのダブル・スプリング・テンション・システムは私はサンツアーに対してシマノの有利を築いたと私は考えています。サンツアーのスラント・パンタは、ワイドレシオになると、トップからローへゆくのは問題ないのですが、ローからトップへは「ギアの上を滑ってチェンが降りてくる」傾向がでました。それで勢いあまってエンド側にチェンがはずれる。

1970年代は方向指示器が付いたいわゆる「フラッシャーチカチカ」と言われていた自転車には多く、コンソール型のレバーとワイドレシオのギアが付いていました。そこでシマノはかなり有利だった印象があります。

じつは日本のお家芸のインデックスの祖先は、シマノのペッカーのリア変速器(これはシマノの最初の『首付き変速器』でデユラ・エースの祖先と言ってよい)とインデックス付きコンソールタイプのレバーということが出来ると思います。

つづく、

海原の亀

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海外からの友人を成田に見送りに行くと、私はだいたい帰りは成田山新勝寺に御参りによります。山門の下の池で亀を見たりして、帰って来るのがいつものパターン。

私は泳いでいる亀を見ると、サイクリストのようだな、とつねづね思うのです。

広い水の上に浮かび、ゆらゆら手足を動かして、進んでいったり、向きを変えたり。

ゆっくりでも必ず前へ進む。じっとしていては動かない。またほかの亀がどういう泳ぎ方をしているか、研究したりはしない。ところが、どの亀をみても、同じような泳ぎ方をしている。

先日、スキッターの変速の感じが使い込んだ工作機械のように、油にまみれてスムーズに動いている感じがする、あれはきっと機械工作の得意な人たちが試乗して乗り味を決めたので、レーサーが作った変速の味付けではない、と言う話を仲間にしました。

これは、もう現代の人たちに話しても、なかなか通じない話だと思いますが、私の中では、「ツーリング用の変速器の感覚」と「レース用の変速器の感覚」は違ってしかるべきだろうと思うのです。実際、その2種類の味付けを楽しんでいたものです。

ペダルを高回転で回している時、カンパのチェンジ感覚というのは、精密な時計の日付が変わる時のような手触りがあるのです。しかし、一方で、私はツーリング車の、サイクロのヘリコイド式の、リアの歯車にしっかりチェンが巻き付いている安心感のなかで、にゅるっ、チー、カチャンという変速する感じもものすごく好きなのです。アルビーとかスキッターにはそうした、古き良き変速感覚が残っていると思います。

サイクロのヘリコイドが変速が古臭くてダメか、というとそういうことはまったくありません。超精密に削りだされたベアリング入りの巨大なジョッキー・プーリーがハブ軸ほどの太さのシャフトの上を精密に平行移動する。スプリングは入っていないので、行きも帰りも変速レバーの重さはまったく変わりません(日本のオーダー車のエキセントリック・レバーはそううまく作動しない。あくまでメーカーの純正レバーとワイヤーを使わないとダメです)。

なにしろ、1930年代、フーベルト・オッパーマンやルネ・メンジスらによって、世界記録を16以上も打ち立てた変速器です。悪いはずがありません。

最後の頃のサンツアーのサンツアーテックや最近のシマノの変速器はジョッキープーリーを巨大にしましたが、ヘリコイド・サイクロが消滅して40年以上経って、ジョッキープーリーがかつてのサイクロのものとほぼ同サイズになったのはきわめて興味深い。

サイクロで飛ばしまくって高回転にすると、プーリーやギアのブレがないのとあいまって、ますますシフトは正確になってきて「こりゃ、世の中まったく進歩していないな」という感じです。

そういう使用経験を重ねてくると、どうも、現代の変速器は「1本調子」と言う気がするのです。どれも似ている。使用感はどれもレースを向いている。

しかし、コンポーネンツの選択はばが狭くなり、3社ぐらいのうちから選ばなければならない現代では、「自転車の味」というのはみんなどこで出すのかな?といつも考えます。

ひとつの会社のひとつの味で高価なものから安価なものまで格付けができている。しかもその変速感覚のけっこうな部分が変速レバーで作られている。

また、変速メーカーの取り付けマニュアルを見ると、チェンステーの長さ、シートアングル、すべてが数値で指定されています。ブレーキと変速レバーは一体なので、変速器が決まるとブレーキも同じメーカーにしないと力率が変わって来るのでそろえる。そうするとブレーキブリッジの位置も各社同じになる。

そうすると、もうフレームの諸寸法はどこの会社もほとんど差がなくなってきます。

ハンドルも主要な3~4社、サドルもそんなものでしょう。フレームは転写シールが違っても、台湾の同じメーカーで作られた可能性もあります。

極東では、知らないうちに、自転車の乗り味は驚くほど画一化されてきているのです。

それは逆の意味で、池にたくさん同じような亀がいる光景にだぶって見えてきてなりません。たくさんの亀のなかを、まったく違う泳ぎ方で、たまにヘビが滑るように悠然と池を渡ってゆくのが見えても面白いのではないかと最近は考えます。

ガレット

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ガレット、ガレットと思い詰めて某所に行きましたところ、なんと閉まっていました。なんたること。

これはカツ丼とかウナ重と同じで、「思い詰めてそれを食べようと思っていると、急に方向転換はできません」。

別のお店に行きましたが、この蕎麦粉を薄く焼いて蜂蜜をかけるだけのものが、やはりお店でずいぶんと味が違う。不思議なものです。
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